「ああ、ますますひどい降り」

今日という日に、とはため息をついた。

忍術学園の今年の授業は昨日すべて終了した。

今日の午前中いっぱいをかけて学舎と長屋の大掃除が行われ、早いものは午後すぐに帰途につく。

厨房は朝・昼の食事支度のほかに帰宅する生徒のための弁当づくりにてんてこ舞いで、

とりあえず大掃除どころではなかった。

大量の握り飯をつくって腕がじんじんと痛むのをほぐしながらふと・見上げた空からは、

ひっきりなしに雪が舞い降り続けている。





夢醒めやらぬ 二十二





生徒たちはちらほら、まばらに食堂を訪れた。

昼食を済ませてそのまま長屋へ戻る生徒もいれば、すでに旅姿でやってきてそのまま出かける生徒もいた。

ほかの長期休暇なら帰宅せずに学園へ残る生徒も大勢いるそうだが、

年末年始となると少々話は違ってくるらしい。

相当数を用意したはずの弁当はみるみるうちにその数を減らし、はまた慌てて握り飯をつくりにかかった。

「お手伝いしましょうか」

涼やかな声に呼ばれて振り返ると、すっかり親しい友人同士の間柄となったあのくの一が立っていた。

「ありがたいですけれど……でも、お帰りのお支度は?」

「今年は年明けまで残ります。

 学園長先生が温泉へお出かけになると仰ったので、どのみち宿直が必要でしたから」

「まあ、それは……食満様は?」

「こちらへ寄るそうです。

 学園長先生がお帰りになるまで、ボランティアで宿直に付き合ってもらいます。

 どのみちいくらかは男手がないと困りますものね」

当たり前のようにそう言うのを聞いて、はくすくすと笑った。

食堂はいつになくざわついて浮き足だった空気が常に漂い、

生徒たちもどこか落ち着きなくはしゃいでいるかのようだった。

時折、外から生徒を迎えに来たらしい遣いのものや親たちなどが訪れることもあるので、

そういった来客に茶を振る舞うことも忘れてはならない。

いままたひとり訪れた客に、は同じように茶を運んだ。

「どうぞ、おかけになってお待ちください。道中はお寒うございましたでしょう」

言いながらは、不躾にならぬよう気を配りながらも客を観察した。

よりいくつかは年下と思われる青年で、髪や目の色素がやや明るいのが目につくが、

凛々しい面影にそれもよく合うように思われた。

彼は少し不思議そうな顔をしたが、恐れ入りますとかしこまって頭を下げてくる。

なにか引っかかる気がしながらも引き返そうとしたのうしろから、

あら、田村くんではない、とあのくの一の声がした。

「……先輩。お久しぶりです」

一度座ったものを、彼は礼儀正しく立ち上がると深々、礼をした。

「まあ、卒業生の方でいらしたのですね」

「……はい。田村三木ヱ門といいます」

食堂に新しく勤められた方がいらっしゃるとは聞き及んでおりましたと、彼は付け加えた。

くの一が応じる。

「佐武虎若くんから聞いたのね?」

「はい、村へ宛てて文が参りましたので。

 ……久方ぶりに学園を訪れてはどうかと、呼ばれたものですから。

 普段は出迎えをとは、若のお父上も仰らないのですが、なにぶん今年は雪も深いですし」

言いながら三木ヱ門というらしい青年はチラとに視線を寄越した。

くの一がおかしそうにに告げる。

「この彼はね、さん。

 潮江くんが絶対の信頼をおいていた後輩なの──例の、会計委員会のね」

「まあ、そうでしたか」

文次郎の名が出て、はふと表情をやわらげた。

三木ヱ門もなにか照れ入ったように口元に笑みを描く。

「……潮江先輩の奥様がいらしていると、文にありましたもので……

 不躾は承知ではありますが、……お会いしてみたくなりました」

「そう言って見えられる方が、時折いらっしゃいます。

 そのたびに、文次郎様はどんなに女性と縁のないように見えたのかと思って、おかしくて」

「……だから、お会いしてみたかったのです。

 あの潮江先輩を射止めるなんて、どんな方かと」

三木ヱ門はふわりと、思いがけないほどやわらかい笑みを浮かべた。

「潮江先輩は、お考えや行動はとても熱心で……我々後輩は追いつくのに必死だったりもしましたが。

 表面上は乱暴に見えたり横暴に思えたりしても、その底にある根拠はおやさしい、そういう先輩でした。

 ……でも、女性に対しては、どうなんでしょう。

 もしかすると、素っ気ない態度を装っておられるかもしれませんね」

「……ええ、そう、そういう方です。

 でも、それを言い当てられた方って、初めてかもしれません。

 どなたも想像がつかないと仰いますから」

「そうですか?」

三木ヱ門は不思議そうに首を傾げた。

そこへ、虎若と団蔵が連れ立ってやってくる。

三木ヱ門を見つけ、虎若は目を輝かせた。

「田村先輩! 本当に来てくださったんですね」

「自分で呼んでおいてそのようなことを。

 それと……もう先輩と呼ぶなと何度も言っているはずですが、若太夫」

「先輩は先輩です。敬語なんかいりませんと、こっちだって何度も言ってます」

虎若も譲らない。

団蔵も嬉しそうに三木ヱ門に声をかける。

「田村先輩、お久しぶりです! お元気そうで、よかったです」

「ああ、お前も、団蔵」

やりとりを横から見ては、このふたりが委員会の先輩と後輩の間柄であることを一瞬のちに理解する。

そしてふたりともが文次郎の後輩であるのだと思うと、

その当時を知らないながらも不思議と愛おしいような気持ちがこみ上げた。

出かけようとする三人を見送ろうとするが、天気は今なお回復してはいない。

「……雪はますますひどくなるばかりですね。

 出発は明日に延ばした方がよいかもしれません」

心配そうなの口調に、しかし虎若も団蔵も首を横に振った。

「そう遠い場所でもありませんから、これ以上ひどくなる前に出発します」

「でも」

「それに……早く、みんなに会いたいし」

団蔵がやんちゃな笑顔を見せる。

そうですね、と答えたの声を、違う声が乱入して掻き消した。

「みんなに、じゃなくて誰かさんにだろ、団蔵は」

「……! きり丸、黙っててくれって……」

乱太郎ときり丸、しんべヱが連れだってやって来たのであるが、

ニヤニヤとしながらきり丸が言うことに、聞いていた誰もがきょとんとしている。

きり丸は数瞬あとで、今気がついたとでも言うようにああ、と言った。

「みんな知らねんだっけ?」

「知らないよ……! ていうかなにを言ってくれるんだよお前……!」

「悪り! 口がすべった」

そう言いながらニヤリと笑ってみせる顔は確信犯のそれである。

団蔵は大慌てで言葉にならないことをしばらくわめいた。

「団蔵、村に誰か、いるの」

誰か、という語の指す意味など言わずとも知れたことである。

団蔵は肯定も否定もしなかったが、黙り込んで肩をいからせ、

かあっと赤くなったそのさまは言葉よりも雄弁に答えたに違いなかった。

「い、いいだろ、放っといてくれよ」

動きがぎくしゃくとしたまま、団蔵はさあ急いで帰るぞとわざとらしく一言吐いて食堂を出ていった。

三木ヱ門と虎若もそれに続く。

三木ヱ門はなにか言いたそうな、後ろ髪を引かれているような顔をしていたが、

にはその意味がよくわからない。

ふたりの姿が見えなくなってから、くの一がこそっと、の耳元に囁いた。

「田村くんはね……本当はきっと私が苦手なの」

「まあ……? なぜでしょう?」

「学生の頃にね……いろいろあったのよ。その後一度、武術大会で対戦したわ。

 かなり卑怯な戦法をとったのであとから潮江くんにずいぶん恨み言を言われたけれど」

は目をぱちぱちとさせた。

の常識であれば少年と少女の対戦など考えられないことであったが、

忍の学園ならではの例外にも少しずつ慣れてはきたので、口を挟まずに聞きの姿勢を見せる。

くの一は続けた。

「……そのときはそれでも、田村くんが勝ったのよ、とても正当な勝利だったわ。

 あれで吹っ切れてくれていれば……いいと、思うけれど」

話を聞いてもにはふたりのあいだの事情はわからないが、

少なくともくの一が彼に対して抱いている感情は心配の類であるらしいことはわかった。

乱太郎が横から口を挟む。

「あの武術大会は、今だから言いますけど、ほんとに恐かったんですからね!

 ご自身が痛い思いをする戦法ばかり巧いんだから」

「まあ、言うようになったこと、猪名寺くん。心なしか善法寺くんの口調に似たものを感じるわ」

乱太郎は反論の勢いを失ってびくりと肩を震わせた。

会話がいつもどおりのペースと話題に戻っていくと、も少しほっとして笑いに加わることができる。

しんべヱはにこにこと弁当の包みを受け取って言った。

「僕、おばちゃんとお姉さんのおにぎりの違いもわかるんですよ。

 お姉さんのおにぎりは少しだけちいさめで、さんかくで、おばちゃんのより塩味は薄めで、具はたっぷり!

 どっちも好きだなあ、僕」

ありがとうございますとにっこり微笑まれて、もつられるように微笑み返す。

特にこの福富しんべヱという生徒からは料理に対する讃辞を受ける機会が日常・殊の外多かった。

ぽわわんと頬を染めて、彼は続ける。

「僕もお料理の上手なひとをお嫁さんにほしいなあ」

「まー、しんべヱ様、なにを仰っているの」

しんべヱはびくりと振り返った。

学園長の孫娘の大川シゲが、食堂の入口を塞ぐように仁王立ちしている。

「年末のご挨拶に参りましたのよ。それってどなたのこと、しんべヱ様?」

「え、えーっと……」

照れなのか焦りなのか、しどろもどろになりながらもしんべヱはシゲのほうへ寄っていき、

しばらく言葉を交わしたあとで振り返ると、また来年、良いお年をと言い残して食堂を出ていった。

入れ違いに土井師範がやってくる。

「待たせて悪かったな、話が少し長引いた。さて、行こうか」

きり丸の待ち人は保護者役をつとめてきたという土井師範だったらしい。

が弁当の包みを手渡すと、土井師範はなにかあたりを警戒するようにきょろきょろとする。

「……これはさんがおつくりになった分ですよね」

「はい、……?」

「よかった、それなら安心だ。危険物が混じっている可能性もない」

「まあ、危険物だなんて!」

「いや、面目ない! そうではなくて」

土井師範の代わりに横からきり丸が弁明に入る。

「お姉さん、あのねえ、土井先生は昔ッから練り物がダメなの、天敵なの。

 おばちゃんならなんとか食わせようとして飯に混ぜ込んだりするからさ」

「……それにしても、土井先生、いい年をした大人が」

「はあ、本当に」

でもダメなものはダメでしてと、土井師範は苦笑した。

「さー先生、おばちゃんに気取られる前に行くんでしょー」

「そ、そうだな、じゃあこれで……良いお年を」

「はい、皆様も良いお年を。道中どうぞお気をつけて」

土井師範ときり丸、途中まで一緒に帰るという乱太郎を見送り、はふうと一息をついた。

「めまぐるしいこと、でも、みなさん次々と学園を出られて……少し寂しくなりますね」

「毎年のことよ、松が明ければ……特に熱心な上級生たちはすぐに戻ります。

 最上級の子たちも、就職活動のさなかですから」

「お忙しいのね」

けれど忙しく賑やかしいうちは寂しい思いもまぎれるからと、はわずかに安堵した。

忍というだけあってまわりの者たちはのそうした小さな反応にも敏感であった。

いま隣にいるくの一には悟られずに済んだだろうかと不安になって気を引き締める。

彼女は意味ありげな視線をに寄越した。

しばらくその目にじっと見つめられて、なにやらどぎまぎしてしまう。

「……さんは。運命というものを信じていらっしゃる?」

「運命ですか」

「ええそう」

唐突な問いであったが、はまじめに考えた。

言葉を選びながら、答える。

「……運命の巡りがなければ、あの方のことを、私は憎んだままで、いたのではないでしょうか」

ましてや愛するなどということは。

はおかしそうに笑った。

「なんだかもう、……それ以外にたとえが見つからないほどです」

「すてきなことね」

「……苦しいことも、多いかもしれませんけれど、ね」

「男がばかをやって苦しむのはいつも女! でも女に生まれたことを嫌とは私は思わないの」

「……私もです」

どんなに待たされても焦らされても。

ふたりは目を見合わせて笑った。



夕刻、すっかり空の暗くなった頃には生徒の大半が学園をあとにしていた。

弁当の用意と食事の支度のあいまをぬって、は食堂の大掃除にも着手したが、

それほど時間もかからずに終わってしまう。

普段からおばちゃんが丁寧に大切に使っている場であるということがしみじみと感じられた。

そのおばちゃん本人は久方ぶりに故郷へ帰ると、

食堂の混み具合のピークを過ぎたのを見計らって学園を出ていた。

以後はとくの一とのふたりで食堂を切り回していたが、

がやってくる前はおばちゃんひとりでこれ以上の作業をこなしていたのかと思うと気が遠くなった。

休む間もなく夕餉の支度に取りかからねばと、は疲れのたまってきた身体をよいしょと起こす。

米を炊く支度をしていると、食満留三郎がひょいと食堂に顔を覗かせた。

くの一が厨房から迎えに出る。

「まあ、お帰りなさい、食満くん。今日のうちに来るとは思っていなかったわ」

「ああ、雪な……途中ひどかったが今はかなりおさまってるよ。ところでひとつ聞いてもいいか」

「どうぞ」

「お前が俺のとこに来てもうどれくらいになる」

「……三年目ほどね?」

「……それでなんでいまだに俺のことを苗字で呼ぶんだ?」

くの一はしれっと答えた。

「あなたがダメと言わないからよ」

留三郎は頭痛がすると言いたげにこめかみをおさえた。

調子づいてくの一が畳みかけるように続ける。

「ではなんと呼んでほしいの? 留三郎さん? 留さん? あなた? 旦那様?」

「もぉいい、好きにしろ……」

「ほらね」

「ほらね、じゃねぇよ……まったく、重力でもかかってるんじゃないのか、お前の声には」

「従わずにおれない?」

「……つまりそろそろ黙らせたい」

「どうせならすてきな方法でね」

くの一はこのうえなく愉快そうに微笑み、その唇の前に人差し指を立てて見せた。

その言動の意味するところにもちろん留三郎は気づいただろうが、それ以上の挑発には応じようとはしない。

厨房から覗いてはその光景にちいさく笑うが、胸の奥によぎるざわついた思いに気づかぬ振りはできなかった。

ああして文次郎を迎えてやれる日はいつになるだろう。

己にあのように幸福な時間が訪れるまであとどれくらい待てばよいのだろう。

家族の元へ、大切な人のところへ帰ろうという生徒たちを見ていても、

ずっとずっとの胸の内にはそのざわついた、ざらついた気持ちが横たわっていた。

今日一日はちゃんと笑えていなかったかもしれないと、いま少し、不安になった。

留三郎は厨房のにもきちんと挨拶をしにきてから、

これからほかにも何人かが訪れるから、迷惑をかけるがと言った。

「お客さまが?」

「いや・いや。酒を喰らいに来るだけ」

留三郎のその物言いと楽しそうな表情とで、客たちの顔がなんとなく思い浮かぶ。

「では、お食事と、肴のご用意があったほうがよろしいでしょうね」

「や、お構いなく……でも潮江の奴が自慢してた料理は馳走になってみたい気がするかな」

「では、煮付けもこしらえましょう」

少しばかり照れも混じって、は微笑むとまた夕餉の支度にかかる。

米の釜を火にかけたところで、何気なく勝手口の外へ目をやった。

確かに雪はちらちらと舞うほどで、先程の大雪よりはかなり程度はおさまっている。

遠く雪の向こう、わずかに下っていった低い位置に学園の門が見える。

大雪のために帰省を明日へ延ばしたという小松田が、

恐らく留三郎の言う客たちを迎えるためであろう、門扉を開けているのが見えた。

はふと、ちいさな思いが胸の奥に芽ばえるのを感じて、なにげないふうでその様子に目を留めた。

ほそく雪の降り続くのに隠れきらない、遠目には黒ずくめに見える装束をまとったひとが、

門をくぐって現れた。

その瞬間、の耳から、世界中を取り囲む音という音が消えた。

吐いた息が震えていた。

客は俯き加減に身体中にかぶった雪を払い、

小松田のほうへ向き直るとやり辛そうに筆を握って入門票に名を記している。

小松田の表情は興奮気味に見えた。

食事の支度を手伝いに厨房へ戻ってきたくの一が、さん? と問いかけた。

その声は音の遠い中で辛うじての耳には届いたが、その意味を解することはできなかった。

取り憑かれたようにふらふらと、数歩食堂の外へ出る。

不思議と寒さは感じなかった。

客の後ろにもうひとり、大柄な男がついて入って来、その男がまずに気がついた。

知った顔だとは思う。

小松田となにか話し込んでいる彼を呼び、なにやら囁くようにしながら、その手がを指さした。

客は顔を上げ、その目がまっすぐにをとらえた。

そのたった一瞬は、呼吸や鼓動さえも止まったようには感じた。



彼の唇が、の名を紡いだのが、声は聞こえずともにはわかった。

堰を切ったようには走り出した。

降り積もった雪に足をとられそうになりながらわき目もふらず走って、

は立ち尽くしたまま動けずにいる男にきつく抱きついた。

「……文次郎様!」

涙がぼろぼろとあふれ出て、せめて笑って迎えてやれたらなどと思ったこともあったのに、

もう自身にもとどめようがないのであった。

堪えきれずにその声は嗚咽に変わる。

「文次郎様……文次郎様……!」

胸の内での泣き声がきれぎれに何度も彼を……文次郎を呼んだ。

彼はそれでもなおしばらくのあいだ、戸惑ったようにただ立ち尽くし、どうすることもできずにいた。

ややあって、切なげに目を細め、彼は躊躇いながらの肩に手を置いた。

「……

文次郎はやっと、かすれた声で妻の名を呼んだ。

返事もおぼつかないまま、着物を握りしめていたの指にぎゅっと力が込められる。

そこから文次郎の肌の内に、胸の奥までも、むず痒い思いが走り抜けた。

言ってやれることなど、かけてやれる言葉など、一体どれほど己が持ち合わせていたろうかと、

文次郎はぼんやり考えた。

は彼を、責めてはいないのであった。

それが文次郎には奇妙に居心地の悪いようにも思われて、

本当に己がここにいてこうしてに寄り添っていてもいいのかという逡巡に彼を駆り立てる。

その細い肩を抱きしめてやるだけの度胸すらもなくて、

文次郎はただ、妻の肩に手を置き、その髪をそっと撫でた。

は答えるように、文次郎の肩口にすりよった。

耳元にの浅い苦しそうな呼吸を聞く。

その頬は今は見えないが、涙に濡れているに違いない。

文次郎はの耳元に唇を寄せて、囁くように言葉をついだ。

「……無事だな」

は小さくうんうんと頷いた。

泣くことで文次郎を困らせたくなくて、は必死で嗚咽を噛み殺した。

文次郎は聞き取れないほど低い声で、そうか、と呟いた。

「……よかった。おまえの身に何事も起きておらんのなら……この上ない」

言いながら、文次郎は己の内に凝り固まっていた頑なな感情が、もろくとけていくのを感じた。

「ずいぶん、長く……待たせたな」

はまた何度も小さく頷いた。

口を開けば、言葉よりも先に泣き声が漏れてしまうのだろう。

文次郎は子どもを慰めるように、その髪をやさしくなで続けた。

「悪かった……心配をかけた。もう、大丈夫だ」

大丈夫、という言葉の内に、いくつもの意味が込められているように感じた。

大きく息を吐いて喉元を落ち着けると、は少しばかり、彼から身体を離した。

躊躇いがちに見上げると、やっと間近で、視線が合った。

文次郎がこんなにも真摯にまっすぐ見つめてくれたことは、これまでにきっとなかったと、は思った。

「……文次郎様」

「ああ、俺だ」

「……これは夢なのでしょうか」

文次郎はわずかに苦笑した。

「俺は悪夢から醒めたばかりだ」

お前はいまだ、眠りの中か。

そう言ってふと笑った文次郎のその表情は、が見た中でいちばん穏やかで、いちばんやさしさに満ちていた。

「これ以上すれ違い続けるのは御免だぞ」

言って文次郎は、ぽんぽんとの髪を撫で、そのままおもむろに、やっとを身体ごと抱きしめた。

「やっと帰って来られた。

 ……これがお前の夢ならば、醒めぬままでもいいかもしれん」

の目にまた涙が浮かぶ。

「……お帰りなさいませ、文次郎様……ずっと、お待ち申し上げておりました」

言葉で答えることができず、文次郎はの肩で頷いた。

朝方から降り続けた雪はやっとやわらぎまばらに舞うばかり。

互いに抱きしめ合うふたりと見守る人たちの肩に髪に、六花がちらちらとやどってはとけていった。



*      ***