十数分後、俺とはなぜか、
駅前商店街から一本外れた静かな通りにある喫茶店で向かい合わせに座っていた。
とりあえず落ち着こう、と言ってなんとなくやって来た先だったが、
その目的を果たすための場所としては大正解の選択だと思う。
なんというか、レトロな雰囲気とかいうたとえはたぶん、こういう場所のことをさしているのだろう。
テーブルやら椅子やらはもちろん・カウンタに建物自体の柱・剥き出しになった天井の梁にいたるまで、
調度や内装のすべてはいかにも古びた佇まいだ。
よく使われ磨かれて黒光りしている、その光沢は決して安っぽいそれではなく、
落ち着いてしっとりとした印象を抱かせる。
そういうやわらかく老いたような店全体の雰囲気はどこか、
名器と呼ぶに相応しいだけの年月を経てきた楽器の醸し出す空気にも似ている。
そんな大それた楽器などもちろん弾くどころか
お目にかかったことすらない(あ、コンサートでなら何回か見た・聞いたことがある)のだが、
それらの奏でるすでに練れた音というか、よく鞣した革のようなやさしい聴きごこちというか、
その楽器が紡ぎ出す旋律を耳にしたときのなんともいえないあのやわらかい疼き、
それと同じ感覚が内心にいま生まれているような気がする。
たぶんそれは怯えきったにとっても同じで、彼女はこの空気に慰めを見出すことができたのだろう。
席に座ってから彼女はやっとのことで落ち着きを取り戻し、ふ、と大きく息をついた。
もう涙も乾いた頃なのだろうが、やたらでかい目玉はなんだかいつでも泣いているみたいに見える。
噂から想像していたのとかなり違うぞ、と、思いながら不審に見られない程度に彼女をちらちらと盗み見る。
美人美人と皆が言うし、かかとを鳴らして颯爽と歩くというイメージや
文次郎がもう呆然とせざるを得ないような才能の持ち主という事実をそれにプラスすると、
すらりと理知的な、クールそうな、仕事の出来そうな……そういう人物を思い描きたくもなるじゃあないか。
加えて、肥大していく噂を聞き続け・そのピアノを折につけ耳にし続けたというのに、
本人にだけはその一か月のあいだ一度も遭遇したことがなかったという偶然が、
なにやら神秘的な印象を掻き立てることに微妙に貢献していたような気がする。
姿は見えないがこんなにも優れた人物なのだ、という想像だけで俺たちのあいだに生息していたは、
たとえばつちのこだとかと並べて遜色ないようなレベルで伝説の人物となり果てていて、ひどく空虚な存在感しかなかった。
それが目の前の本人はどうだ。
店員がオーダを取りに来たので、俺は慌ててメニューに視線を落とした。
いや、ふつうにコーヒーだけど。
「あったかいカフェ・ラテと……」
自分の分をオーダして、はチラと俺のほうに視線を寄越した。
つられてホットコーヒーをオーダしてから、ああ、アイスにすればよかったか、と思い直すが遅かった。
そろそろ夏だ、充分夏だ。
ホットじゃ更に暑いなあ、と思いながら特に訂正せずにぼんやりと、
俺は改めてのほうを見やった。
ずいぶん小柄だなあとさっきも思ったが、
こうして椅子の上に縮こまって座っているのを見ると尚のことその印象が強まる気がした。
服装と靴のせいでやっと大学生、といった雰囲気で、
その装いをちょっと幼くしてしまえば絶対中学生で通ると思う。
彼女は居心地悪そうにもじもじとしていたが、やがてなにか言いたそうに俺のほうを見た。
嫌な目にあったせいで落ち着かないのだと思っていたが、どうやら俺の視線にずいぶん前から気がついていたようだ。
ああ、これは、俺が悪い。
「あ、悪い、……えーと」
話題がない。
それに気づくと急に気まずい。
えーと、どうしようか。
一瞬ひやりとしたところ、のほうが先に口を開いた。
「……ごめんなさい、いきなりこんな変なことでつかまえて、付き合ってもらっちゃって……」
初対面の彼女と喫茶店で茶を飲む羽目になった現状のことを言っているのだろう。
確かに練習時間が削れると思うとあまり嬉しくないと言えばそうだ。
しかし今は目の前にいるこの女についての興味やら好奇心やらのほうが勝っている気がする。
まあ、なんちゃって伝説の印象もあるが、あの音楽バカの文次郎が気にかけていた相手だと思えば、ということだ。
なんだかんだ、俺も現金だよな、結局。
「いいよ、なにも予定なかったし。あ、」
こちらは名乗ってもないことを思い出した。
「俺も一年。食満留三郎。ヴァイオリン専攻」
「うん」
専攻はわかってると言いたそうに、彼女の目は俺の隣の席に座したヴァイオリン・ケースに吸い付いた。
彼女は話題にしたくないのかもしれないが、
俺はさっきの“変な人にあとをつけられて”という彼女の言葉を問い返すことにした。
「……どういう意味? いつから……ずっと続いてるのか?」
はつらそうに俯いた。
嫌なら言わなくていい、と付け加えようとしたが、それをさえぎるように彼女が先に口を開く。
「……入学してからなの……実家を出て、大学の提携先のアパートに入ったんだけど、
 それで通学に電車を使うようになって……」
「電車で会うのか」
「ん……」
あまり具体的に言う気にはなれないらしい。
そりゃあそうだ、きっと言いづらい話題だ。
しかし、テレビのニュースなんかでは見るにしても、身近にこんな卑劣な奴がいるもんだとは。
「ケーサツとかには?」
彼女は何も答えなかった。
これもまたテレビでよく見るように、結局なにもしてくれないから、という答えに終わるのだろうか。
取り締まる側の応対にも限度があるのはわかる、のだが、
実際に被害にあってつらい思いをしている人間を目の前にすると、
それじゃあこいつはあまりにも途方もない思いで立ち尽くすしかねぇじゃねぇか、と悪態をつきたくもなってくる。
「女子ども専用車両とかなかったっけ」
「時間が合うときはそういう車両に乗るの。
 でも、一定の時間に帰れるわけじゃないから……」
「だよなあ」
しかしその変態は、一定の時間に帰るわけではないを狙い撃ちできているというわけだ。
とんでもねぇ、なんて執念だ。
話が重苦しい袋小路に突っ込んだところで、まるで救いのようなタイミングでコーヒーとカフェ・ラテが届く。
目の前に置かれた白いカップを覗き込んで、彼女はわぁ、と歓声を上げた。
「ラテ・アート! 可愛い! 見て」
態度が一転も一転、目を輝かせて彼女は至近距離で俺を手招いた。
その変わり身のはやさに少し引きつつ、見下ろした先のカップの中には……ねこがいた。
スチーム・ミルクにエスプレッソで絵を描くあれだ。
実際目にすると素直にすごいと思う。
「へー、すげぇ、初めて見た」
「すごい! ああ、でも、どうしよう、飲めない」
ねこが可愛くて、カフェ・ラテと思って砂糖を落とすこともそれを混ぜることもできないという。
そうやって真剣に悩む姿は、小柄だという見た目の特徴を差し引いてもやっぱり幼く見えてしまう。
誰もが口々に囁いた・近寄りがたいほどの美人、という評判はどこからきたんだ、まったく。
ひとしきりはしゃいだあとで彼女はそのカップを四方八方から写メって、
ねこに何度もごめんねと謝ってから砂糖をスプーンに二杯も落とし、
まさに苦汁を飲んだといった表情で覚悟を決めてそれを混ぜた。
なんだか笑わずにいられない。
「あ、なに、おかしい?」
「いや……」
「子どもっぽいって言いたいんでしょ」
どうやら同じことをよく言われるらしい。
先手を打ったつもりか、彼女は自分からそう言い出した。
うまくフォローしようにも、よく考えると慣れた場面では決してなかった。
誰かとふたりで向き合うなんてことがあれば、最近なら大体個別練習時に教授と対決するときだ。
あとは、そうだ、ずっとヴァイオリンしか俺の横にはなかった。
もっと他にも選べたものがあっただろうが、とにかく俺はずっとそうしてきてしまった。
はどうせ私なんて、などと唇をとがらせ、ねこの残骸も残らないカフェ・ラテをすすっている。
苦し紛れに俺は話題を別のほうへ向けようとして、まったく無意識に、文次郎の名前を出した。
「潮江くん?」
「そう、ピアノ専攻の一年にいるだろ」
友達なんだとはなんとなく言いたくなくて──なんと言うのがいちばん適切なのかいまだに迷う──、
俺はそこで口をつぐむ。
彼女はああ、となにかに気づいたように頷いた。
「じゃあ、食満くん、潮江くんといつも一緒にいるお友達たちなんだ?
 よく食堂でにぎやかにしてるの、見かけるよ。仲いいよね」
俺がわざわざ避けた友達という言葉をさらりと使い、彼女はおかしそうに笑った。
「潮江くんはね……同じ先生に教えていただいているから。
 コンクールとかでも何回か一緒になったことあるけど、よく考えたら一回も話したことないな……
 私、嫌われているみたいだし」
「はっ?」
思いがけないことを言われて素っ頓狂な声が出る。
俺たちのあいだではすっかり、文次郎はに片想いをしている説が有力になっているというのに。
「だって、いつもすごく難しそうな顔であたりを睨んでいるでしょ、私も目が合ったらじろって睨まれるもの」
「あー……あれはあいつの素であって……本人には大体悪気ないんだけど」
ていうかなんで俺があいつのフォローをしているんだ。
彼女は両の手でカップを持ち上げて口をつけ、
意味深な上目遣いを俺──ではなく俺のヴァイオリンへ寄越してから、唐突に俺のほうへ話を振った。
「ね……食満くんはいまなんの曲やってるの?」
音楽の話をしているときは、その声に宿る熱が全然別物なのがわかる。
ああ、こいつも音楽バカだ。
バカだバカだと俺は言うが、たぶん俺が立ちたいスポットはこいつや文次郎やのいるその場所と同じ高さにあるそこだ。
いまだその高さに届かない、見上げるばかりの自分をかえりみれば、ただただ情けない、やるせない思いがする。
なにをいきがっちゃってるの、と言われたのを思い出す。
本当に、なりふり構わずバカになってみたい。
できねぇけど。
なんでだ。
俺は沈んだ声を悟られないように必死にのどに力を込めながら、パガニーニだと答えた。
「『24のカプリース』で苦戦してるとこ」
「24曲全部?」
「いや、その中から三曲だけ。
 なんかもう……死ぬよ、24曲全部弾くとか考えただけで吐きそうだ」
彼女は苦笑いをした。
そして、なにか思いついたように顔を上げると、なにやらポケットをごそごそとやりだした。
「ね、これ」
彼女が取り出したのはmp3プレイヤーだった。
ピンク色のマーブル・チョコレートを模したようなかたちのイヤホンがついている。
「聞いてみて、面白いから」
彼女はイヤホンを俺に寄越し、自分はプレイヤーの操作に忙しそうに指を動かす。
ピアニストには御法度だろうネイル・アートを諦めきれなかったのか、
短く切りそろえられたつめの先にはラメの入ったピンク色のグラデーションがまるで苦し紛れのように描いてある。
この乙女チックなイヤホンを俺がするのか、と思いながらもそれを耳に当てる。
しばらくして彼女は目当ての曲を探し出したらしい。
クラシックのピアノ曲かと思いきや、まず耳に届いた音は指笛の音だった。
客席から舞台に歓声に混じって投げられるあれだ。
なにかのライブで演奏された曲だろうか。
少なくとも古典ではない。
ドラムスの音が続いてリズムを打ち出して、なんだこの曲はと思っているうちにヴァイオリンの音色がそこへ合流した。
アレンジしてあるのでかなり印象が違って聞こえるが、その旋律は有名だ。
「エルガーの『威風堂々』?」
「そう、ジャズ……ロック? アレンジ版なんだって、でも聞いてほしいのはもうちょっと先」
彼女はにこにことそう言った。
なんだろう、このなにか企んでいるような笑み。
変質者を恐がっていたのがどこかへ消えてしまったのはいいのだが、
本題を言わずにごまかしごまかし話題を進めるというやり方は
伊作や仙蔵がなにか悪事を仕掛けたときによく取る手法なので妙に恐い。
『威風堂々』の主旋律がひととおり奏せられたところで、ドラムスがまた軽快にリズムを叩き出す。
テンポはかなり速くなっていた。
そしてまたヴァイオリンが合流して奏でだした音を聞いて俺は思わず吹き出した。
「か……カプリースの24番……!?」
「そう! そうなの」
「速ぇ……! なんだこれ、ついていけねぇって」
なにをやらかしてくれてんだこの曲はと思いながらしかし、
このアレンジ版は旋律をアップテンポにのせるかわりに
本家本元・パガニーニの『カプリース』第24番本来の旋律から音をひとつ省いていることにも気づく。
あとはもうただなすがまま、曲がまたテンポを落として『威風堂々』の旋律に戻るまで、
俺は声もなくその曲に聴き入っていた。
は俺の反応を見逃すまいとでもするように、頬杖をついてじっとこちらを見ている。
聞き終わってイヤホンを外し、こわごわ俺はその曲がなんなのかを問うた。
「クライズラー&カンパニーの『威風堂々〜カプリス No.24』って曲」
クライ“ス”ラーじゃなくてクライ“ズ”ラーなんだろうか、と思いながら俺は頷いた。
すっかり圧倒されてしまったあとで、万感の思いのこもった息をつく。
「……こういうヴァイオリンもあるんだな」
聞くと、まだたくさん面白い曲があるのだと彼女は目を輝かせた。
きっとこの日、このとき、俺と彼女とは打ち解け始めたのだろう。
気がついたときには喫茶店に落ち着いてから一時間ちょっとが過ぎていて、外はもう暗くなりかけていた。
あまり暗くなりすぎる前にと喫茶店を出て、駅まで数分の道のりをまた他愛ない話をしながら歩く。
彼女の重そうなかばんの中身は半分以上がピアノに関係するものらしいが、
歪なかたちに膨らんだサブバッグの中身は練習用の靴だということだ。
改札をくぐってから降りる駅を尋ねると、俺と同じ方面にひと駅、だという。
俺は更にひと駅乗った先で降りるので、
彼女が電車に乗ってから降りるまでの時間はせめて近所で警戒していてやれるということになる。
いまはその変態はいないみたいと彼女は言うが、
電車を降りたあとでなにかあったらと思うと会って数時間も経たない間柄ながらやたらと心配になる。
ひとり暮らしの女子大生ともあれば、大袈裟なくらい警戒していてもきっと足りないということはないのだろう。
大丈夫かと聞くと、気丈にも大丈夫だと答えた。
なにを根拠にそう言っているのだか、なにかあってからでは遅いだろうに。
「じゃあさ、緊急連絡用ってことで」
携帯電話を取り出すと、彼女は素直に俺の連絡先を登録した。
即座に駆けつけるとは言えないが、
実家の親と離れている分・代わりに頼れる相手は何人もいるに越したことはない。
それが男だったら尚のこといい、たぶん。
ただでさえこんなにミニマムなんだからなあ、見るからに弱そうだ、大した抵抗もできない子どもに見える。
しかしこうなると彼女の特徴のように思えてくるあのかかとの高い靴も問題だ。
走って逃げられるんだろうか、あんなもの履いたまま。
女子は面倒くさいなあと、口に出しては言わないが、思わずにいられない。
連絡先を交換すると彼女はずいぶん安心できたようで、
本当にどうしようもなくなったら電話するねと言い置いて電車を降りていった。
それからひと駅、俺はろくろく考え事もせずにぼんやりと車窓の外を眺めてやり過ごし、
何事もなくアパートの部屋に帰り着いた。
彼女からの連絡はなかった。
無事だったからなにも言ってこないのだろうと思う反面、
連絡する間もないほど切迫した状況だったらと悪い想像もしてしまってひとり悶々とする。
冷蔵庫の中の残り物で夕飯を済ませ、
地下の練習室へ移動しようとヴァイオリン・ケースと携帯電話を持ってエレベータを待っているとき、
彼女からやっとメールが届いた。
無事に帰れました、今日はありがとう、
というだけの内容を数行にも膨らませた本文を読んでやっと安心する。
これで練習に集中できるというものだ。
アレンジ版のカプリースでテンションが上がっていたのかもしれない、
その日の自主練習はこれまでの取り組み方と自分の乗り方が違うのがわかった。
自分で思うよりも大きな影響を受けていたということか。
自分が奏でるのはもちろん古典そのままのカプリース第24番だったが、
もっと音楽の解釈は自由で奔放でいいんだと、たぶん細胞が飲み込んで理解したんだろう。
不穏な旋律だと思っていた冒頭部も、今日は頭の中で音符が弾んで踊っているような気がしてくる。
“カプリース”という語はフランス語で、日本語では“奇想曲”。
語源はイタリア語で“気まぐれ”とかいう意味だから、
やはり理論上から行くと今の気分のほうがこの曲の意図にあっているような気がする。
自由気ままに気まぐれに、で、こんなとんでもない曲を二十四も編み出されてはたまったもんじゃないが、
パガニーニ自身は悪魔と取り引きしてヴァイオリン技術を得たのだと後ろ指さされるくらいの
才能あふれるヴァイオリニストだったというから、嫌味のつもりはなかったのかもしれない。
天才だとか、それに近いと言われる奴らには、そうしたところがあるのだ。
文次郎も、も、と思ったところで俺はまた少し落ち込みたくなる。
何度も何度も、同じような考えを捨てることができない。
楽器が違うのだからすみからすみまで張り合うこともないわけなのだが、
……そこにつり合う、見合う人間でありたいと腹の底で苦しいほど願っている自分がいることに気づく。
ただもうひたすら、自分もやる以外になんの解決策もない。
本当は、天才なんかそうそうこの世にいやしないことだってわかっている。
強いて言うなら文次郎もも、努力をすることの天才なんだろう。
努力を努力と思わずにひたむきに続けることに疑問を持たない、
それについてならばきっと奴らの右に出る奴なんかいない。
だから奴らの目には他の人間なんか映りようもなく、お互いしか意識していないのだ。
いいライバルで、たぶん打ち解けてみればいちばんの理解者同士になれるんだろう。
俺にはまだその役は許されていない。
(……でも)
練習室に設置されているグランド・ピアノのふたの上に目をやった。
今は沈黙し続けている携帯電話がそこにある。
それはひどく後ろ暗い感情のはずだった。
ざわ、と心臓の裏側が疼いた。
──俺は文次郎よりも先にと親しくなったのだ。
文次郎も、ほかの誰も、知らないところで。
明日になってまた大学へ行けば、もしかしたらの話題は出るかもしれないが、
皆は変わらずに例の膨らみすぎた噂を繰り返して囁くだけだろう。
本物の、本人と、俺がもう出会ってずいぶん打ち解けたということも知らずに、
文次郎が無愛想な好意を寄せているのを面白がって眺めている、
俺も皆と同じ外野に過ぎないと誰も疑いもしないだろう。
俺の知らないうちに文次郎はなにかをつかみかけていた、俺はそれを──羨んだ。
でもどうだ、音楽においてではないにしても、……あいつの知らないうちに、俺が得たものは。
文次郎はもしかすると自覚していないのかもしれない。
自分で自分をごまかしているのかもしれないし、もしかしたら本当に俺たちの推測でしかない話なのかもしれない。
けれど、俺が今日思いがけず手に入れたとの親しい距離は、
恐らく文次郎がその無意識の中でもっとも欲しがっているもののはずだ。
それが恋愛関係であるにしろ、音楽に対する情熱を共有するもの同士の関係であるにしろ。
思って俺はぞっとした。
正攻法ですぐには敵わないからと、別の方法で奴を退けて溜飲を下げようとした、俺は。
ヴァイオリンを支える手から力が抜けた。
なんでこういう考え方しかできないんだ。
これが万が一文次郎に知られてみろ──奴は俺を軽蔑したように眺めるに違いない。
その程度の奴だと思われるに違いない。
嫌だ、それだけは嫌だ、いちばん考えたくない最悪の展開だ、
それなのに思考は勝手にその最悪の方向へ勢い込んで走り出す。
(──言わない)
悔しくて、ただ、悔しくて、唇を噛んだ。
奴は自分のことで手一杯で俺のことなんか眼中にもないはずだ。
俺がひとりで張り合って、ひとりで負けて、ひとりで地団駄を踏んでいる。
その間にあいつはまた先へいく、俺との差はその間にも広がっていく。
その差を埋めるために、俺が選んだ手の卑怯なことと言ったら……どうだ。
(絶対に言わない)
言ってたまるか。
俺のこの卑屈な考えも、劣等感も、それが引き起こす悪循環の思考回路のすべても、
そして……と知り合ったということも。
俺は絶対、
誰にも言わない。




(気まぐれに音は走る、追うためではなくきっと逃げるために)



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