「かぶれたな、留三郎」
俺の演奏をひととおり聞いたあとで仙蔵がぼそりとそう言ったのに、
俺はひやりとしたわけなのだ。
なににだ、とは即座に聞けなかった。
演奏の腕は言うまでもない、また聞く耳も研ぎ澄まされて鋭敏な仙蔵になら、
俺が今ひととおり演ってみたカプリースの中になにか奇妙な変化を聞き留めることができたかもしれない。
内心で相当動揺している俺に気づいているのかいないのか、仙蔵は苦々しい口調で続ける。
「ロックかポップスか?
 お前は昔からそうだ、新しく聴いたものからすぐに影響を受けて演奏がころころ変わる」
「あー……」
そういう意味か、と安堵する。
いや、演奏の出来としては決してよろしくない話だが、
文次郎の演奏に聞こえる変化がに絡んだものだろうとひそひそ言われるのと同じように、
俺にも女がらみの何かがあったかと邪推されるのは面倒だった。
とのやりとりは、あのあとも続いている。
仙蔵を含めた悪友たち全員は、まだそのことを知らないはずだった。
というよりも、俺がこいつらには知られたくない、と思って隠しているのだ。
知られたくない。
まだ誰も明確に抱いていない、たぶん名づけるなら恋愛感情とかいうそれを、俺は確実に抱き始めているということ。
恥とか照れとかではなかった。
俺はこの切実な感情を俺だけが持っているということに、優越感のようなものを感じていた。
知られたくない──特に、文次郎には、まだ。
どちらにせよ、俺の演奏に表れたらしい変化とやらが、からもたらされた影響であることには違いなかったが。
例の『威風堂々』と『カプリース』のコラボ曲のことをかいつまんで話すと、仙蔵はああ、と心得たような声をあげた。
「ソロ活動になってからもテレビではよく楽曲が使われているからな。
 お前、聞いたことなかったのか」
仙蔵が挙げるいくつかのテレビ番組のテーマ曲は、聞いて即座に旋律が脳裏に浮かぶような有名な曲ばかりだった。
あれもそれも同じヴァイオリンだと、ばらけていた要素が線で結ばれてペアの情報に成り代わる。
「お前は本当によく知ってんな、仙蔵」
「……誰でも知っているような有名どころだぞ……
 お前が専門分野にだけのめりこみすぎるきらいがあるだけの話だ。
 守備範囲はもう少し広く持ったほうがいいぞ」
「へいへい」
適当に返事をして、話がそれで終わったらしいことに俺はまた安堵の息をついた。
親しい友人を相手に、これまで持ったことのないような秘密ができる。
それはもしかすると、こいつらに対して少し後ろめたく思うべきことなのかもしれない。
黙っていて申し訳ない、とかなんとか。
それでも俺はまだ、何を話す気にもなれなかった。
約束もなにもしていないけれど、俺ととの関係はいますでに、
恋人同士のそれに限りなく近いところまで転がってしまっているに違いなかった。
いつかそういうタイミングがきたら悪友どもにもどうにか話そうと、
何度も自分に言い訳をしてその後ろめたさをやり過ごす。
別に待ち合わせをしていたわけではなかったが、
帰り支度をして西門へ向かっているときにジーンズの尻ポケットで携帯が震えたので、
俺は慌ててストラップを引っつかむとそれを引っ張り出した。
からのメールは、いつも見計らったように帰りの時間に届く。
いま西門に向かってるとこ、と返すと、自分も同じだから一緒に帰ろう、などと返ってくる。
こんなやりとりが続くだけ続いて、期待するなというほうがおかしいのだ。
とはいえ、駅まで歩いて電車に乗って、彼女が降りる駅までの区間を一緒にいるだけで、
それをデートと呼ぶとしたらあまりにさりげなさすぎて俺が悲しい。
けれど俺には今のところ言葉でなにか告白めいたことを言う気はなかったし、
のほうにもその様子は見られなかった。
お互いに押すような引くような、腹の探り合いをしているような。
笑顔で会話をしているその水面下で、たぶん静かな駆け引きが続いている。
きっとこの人は自分のことを好きなんだろう、と、きっと俺もも思いながら、
なにごともないような顔をしつつ、じっと相手の出方を待っているのだ。
ずっとヴァイオリンにばかり真剣でいたせいで、俺にはあまり恋愛らしい恋愛をした記憶がない。
小学生の頃にクラスでいちばんの美少女と席が隣になってこっそり喜んだとか、
そういうレベルの記憶がいちばん新しい気がするからそりゃ重傷だ。
そうしてブランクがあきまくって今、これが新しく巡ってきた恋愛だとするなら、
俺はちょっと、ほんの少しばかり、落胆もしてしまう。
こんな計算ずくの、お互いを試すようなことをし通しの、こんなもんだっただろうか。
たぶん、好きだというだけで済まなくなってしまった、
俺もいつのまにかガキじゃなくなってしまったということなのだろう。
西門のそばで待っていると、例のヒールの音が小走りに駆け寄ってくるのが聞こえて、
振り返ると案の定がやってきたのが見えた。
それにしてもあの細っそいヒールで歩くのも走るのもちょっとした芸だなと思うが、
またこいつは何足の靴を持っているんだろうか。
見るたびに違う靴を履いているような気がして、気のきいた誉め言葉を考えるより先に少しばかり呆れてしまう。
「今日の靴はまたすげぇかかと高いな……」
「八センチ! 見える景色が違うのよ」
「八センチ高くなっても身長150センチいってねぇような気が……」
「いっ・て・る・もん! 失礼ね! 160センチ近いんだから!」
に身長の話題は厳禁なのだと、知り合って間もないころにすでに俺は知っていたが、
それをねたにしてからかうとその反応も小動物のようでなんだか面白いので、
俺は性懲りもなく同じようなことを言っては彼女を怒らせる。
食満くんは背が高いから私の気持ちなんてわかんないんだ、と言って、彼女は唇を尖らせた。
「はいはいすみませんね。どうせ俺は175センチです」
「ちょっと私に分けるべきよ!」
「どうやってだよ」
男で170センチ台は決して高すぎはしないと思うけど。
特に、常に俺より数センチ背が高かった長次や小平太とずっとつるんでいたせいで、
俺には自分の身長が人より高いという意識はまったくもってない。
しかしが標準よりも小柄なことは確かめなくてもわかることだ。
彼女には俺も充分巨人に見えているということだろう。
うーん、ちょこまかしてはいるが、それもなんとなく可愛い。
何足あるかわからないようなかかとの高い靴の数々は、
彼女のコンプレックスをフォローするための大切なアイテムということだろう。
「八センチも高くなって160センチ近くにもなったのに、食満くんにはぜんぜん届かないんだから」
彼女はまた拗ねてぶつくさ言っている。
聞いて俺は苦笑いを返すばかりだ。

最近のからは、あの変質者の話題はぜんぜん聞かない。
不愉快な話題をしなくて済んでいるのを俺から聞いて蒸し返すのも気が引けて
なんとなくその話はうやむやになってしまっているが、
帰り道や電車の中では週に何度も俺が一緒にいるわけだから、
奴もそろそろ諦めたのだと思いたいところだ。
俺も彼女もお互いのことにはもうかなり慣れていて、
話の種がなくて沈黙が肌に痛いとかそういうことはなくなった。
音楽のこと、それぞれの楽器のこと、学校のこと、そのあたりの話を中心に、
会話はほとんど途切れることがない。
彼女が降りるまでふた駅は、このごろじゃちょっと短すぎるくらいだ。
たまには電車に乗る前に、初めて話をしたあの喫茶店に寄ってみたりもする。
ひとつところに落ち着けば、一時間でも二時間でも、話題は延々続いてしまう。
なにか話したいことでもあったのか、彼女は今日、あの喫茶店に行こうと言ってきた。
あのねこのカフェ・ラテが飲みたい、というのがお決まりの口実だ。
反対する理由もなく、いいよと答えて駅に向かう道から一本外れた通りへ向かう。
歩き慣れてしまった道を行くとしかし、今日は見慣れないものが目に入る。
喫茶店のドアは閉めきられて、臨時休業、ご迷惑をおかけします、という紙が貼られていた。
「えー! そんな」
彼女は大袈裟な声をあげた。
何度も何度も貼り紙を見返しているが、それで現状が覆るわけではない。
「別の店探すか?」
聞いてみるが、彼女は不満そうに首を横に振る。
「だって、ねこのラテがないもん」
「そりゃ仕方ねぇだろ……」
呆れたような口調で言ってみるが、本当は俺は彼女が嫌がるだろうと予想がついていた。
そう思いながらなお、別の店に行くかと、わざとそう聞いたのだ。
今日もまた、遠回りの駆け引きが始まっていた。
別の店になら本当はいくらでも心当たりがある。
だって同じだっただろう。
俺たちがいつも通る道とは違う、大学の正門につながるほうの道には、学生好みのカフェがたくさんあるのだ。
ただ、そちらには見知らぬ人もよく知る人も大勢が集っているはずで、
俺はと一緒にいるときにそういう雑踏の中にまぎれていきたいとはあまり思わなかった。
静かでほとんど人のいないところで、互いの話題に没頭できる、その空間が俺は好きなのだ。
だからわざとほかへ行ってみるかと聞いてみる必要は本当はなかったのだが、
俺は俺になんの打算も計算も下心もないのだということをに示すために、
裏のないいい奴なのだと思われたいがために、あえてそういう提案をした。
二人きりでいようと仕向けているわけじゃないと、それを示すために。
そして俺は、にも似たような思惑があることをたぶんうっすら知っていたのだ。
別の店へ行こうかという提案を彼女が断ると思っていたから俺は聞くことができたのだ。
仕方ないから別の店へ行こうかとか、今日は諦めて帰ろうかとか、
彼女がそう返事するかもしれないのなら、俺はきっと聞けなかっただろう。
別の店は嫌だ、でもいつもの店は閉まっている、話はまだ終わっていない。
じゃあその先は。
打算も計算も下心もないふりをしながらその実、俺はそこまでを綿密に計算し尽くして言った。
「じゃあ、うちに来る?」
え、と彼女は驚いたように俺を見上げた。
驚いたように、だ。
心底驚いたわけではきっとなかったに違いない。
も俺と同じくらい、先の先まで計算していたのだ。
別の店は嫌だ、でもいつもの店は閉まっている、話はまだ終わっていない、じゃあ、
そう言って俺が示す次の一手を、は予感していたのだろう。
俺と彼女との計算はそうして、歯車がきっちりと噛みあうように合致して回り始めた。
遠回りを、遠回りをして、俺はなんでもないことのように誘いをかけた。
そして彼女はまるで躊躇うようなふりをしていま、考え込んでいる。
悪魔の囁くようなことを俺は言う。
そのほうがゆっくり話せるし。
変な遠慮しなくていいし。
胸の内にくすぶっている、あやしげな感情や後ろ暗い欲の気配はこれっぽっちも声に出ない。
影響を受ければすぐ演奏に表れると仙蔵は言ったが、今の俺ならきっと奴をも騙しおおせるだろう。
「いいの? 急にお邪魔して」
躊躇うふり、遠慮をするふり。
「いいよ、狭くて散らかっているけど」
親切なふり、気遣うふり。
すげぇな、大人に近い奴の恋愛は歯車だらけだ。
「……じゃあ、行こうかな」
まだ少し躊躇いがちな言い方をする彼女も、
目的だったはずの喫茶店に背を向ける動作には寸分の迷いもなかった。
二人揃って、本音とはなんの関係もない話ばかりをする。
「なんか買っていかないと何もないな。家じゃカフェ・ラテとかできないし」
「あ、どうぞお構いなく。ボトルのハイ・ティーとか買うよ」
「晩飯は? 食ってく? 簡単なものなら」
「ん、ほんとお構いなく……ていうか私もなんか、手伝うよ、お邪魔するんだし」
「料理とかできんの?」
「家庭科で習ったくらいしか……一人暮らしして初めてお母さんのありがたみがわかったよ……」
「だよなー。でも俺わりと器用なほう、自分で言うけど」
「ヴァイオリン弾けるんだもん、充分器用だよ」
彼女は弾けるような笑みを浮かべた。
満面の笑みというものには基本、嘘はない。
彼女の言葉から計算やらが消えて、やっと本音が混じったということだ。
電車に乗って、彼女は初めていつも降りる駅を乗り越した。
精算を済ませてから改札を出て、駅のそばのスーパーマーケットで買い物をして、
いつもよりもたぶん一歩ほど近くを並んで歩く。
アパートまで十分くらいの距離は他愛のない話をしながら歩けばあっという間に埋まってしまい、
辿り着いた頃には空は夜の色になりかけていた。
今朝家を出るときにはさすがにこういう展開は予想していなかったので、
室内はどういう散らかり方をしていただろうかとエレベータを待つあいだにせかせかと思い返す。
そんな俺をよそに彼女はふと気がついて、地下があるの、と聞いてきた。
エレベータの階数表示に“B1”があるのを見つけたのだろう。
「駐車場とか?」
「駐車場はアパートの裏。地下は、練習室。防音の」
「練習室」
彼女は俺の言葉を繰り返してそう言った。
エレベータはゆっくりと降りてくる。
7F。6F。まだ来ない。
「……食満くんのヴァイオリン、聞いてみたいな……」
ぼそりと、独り言のように彼女は言った。
その言葉だけは、音楽に関わる言葉だけは、打算を含まない。
それは静かで熱心な、彼女の真摯な要求だった。
断ることはできただろう。
でも俺は少し渋ってみる以上のことは言わなかった。
「……大したことないけど」
「聞いてみたいな」
シンプルな押しの一言に、俺は素直に押され負けた。
エレベータは3Fを通り過ぎたところだ。
じゃあ、と俺は言って、下向きの矢印ボタンを押した。

「あ、ピアノ! グランド・ピアノがある」
練習室はどこも空いていた。
適当な部屋へ入って電気をつけると、練習室に最初から設置されているピアノに彼女は目を輝かせた。
「私のうち、あんまり広くなくて。
 グランドが置ける部屋の抽選には漏れちゃったから、仕方なくアップライトを置いてるの。
 練習室が別にあるっていうのもいいね、ひと駅遠いけどこっちでもよかったなぁ」
彼女は悩ましげにピアノの蓋に指を滑らせた。
相変わらず、つめは短いが凝ったネイルだ。
荷物と買い物袋とを置いて、ヴァイオリン・ケースを開ける。
頼むぜ、相棒、と頭の中で念じてみたりする。
いろいろな意味で、女子の前ではしくじりたくはないものだ。
「なに演る?」
「んー……」
彼女は楽しそうに考え込んだ。
あまり難しいものをリクエストされても困るし、知らない曲だってある。
即興でいけるのにしといてほしいものだと内心焦れていると、彼女は嬉しそうにぱっと顔を上げた。
「ヴィヴァルディ!」
「『四季』? 『春』?」
ヴァイオリニストにヴィヴァルディは定番だ、『四季』なら一応ひととおり知っている。
楽譜も練習室のライブラリにあるはずだ。
それには心底ほっとしたが、単純な簡易な曲というわけでは決してない。
どうやって演ったもんだかと改めて焦る俺を前に、彼女はううんと首を振る。
「『夏』がいいな。うんと激しいの」
「『夏』? 激しい、って……」
ちょっと物悲しいくらいの曲なのだ。
中盤、確かに激しいフレーズは入ってくるが、ソロでどこまでそれがかなうだろう?
全体に漂うなにとはなしの焦燥感のような雰囲気を大袈裟に演ればなんとかなる……かも、しれない、が。
「もしかして、例のアレンジ版に『夏』もあんの?」
「ふふふー。うん。CDにも入ってるけど、テレビで見たライブ演奏のほうが好きなの」
彼女は嬉しそうにそう言って、ピアノの椅子を引くとちょんとそこへ座り込んだ。
ばかでかいグランド・ピアノの前に座ると彼女のその小柄さがまた目立つ気がしたが、
今は怒らせるのはやめておこうと思う。
『夏』に気をとられ半分、演奏のあとのことに気をとられ半分だ。
上手くいくかどうか、と、ぶっつけ本番に近い思いで、俺は弓を滑らせた。
アントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディ、ヴァイオリニストの神様とでもいうべき偉大な作曲家。
日本で有名なのはたぶんヴァイオリン協奏曲集『和声と創意の試み』──通称『四季』──のうちの
第一番『春』だろう。
まさに春、花が咲き乱れて空は澄み渡って青く晴れ、あたたかい風が吹いている、
誰もがそんなイメージを抱けそうな瑞々しく明るい旋律が広く愛されている名曲だ。
それに比べて一般的には『夏』『秋』『冬』の知名度は少し大人しい感がある。
その三曲が知られていないというよりは、『春』だけが飛びぬけて有名、ということかもしれない。
ともあれ、『春』の曲の旋律と、
その季節のイメージとの奇跡的な一致を知りぬいたあとでほかの三曲を耳にしたとき、
『春』ほどの印象の一致と感動は得られなかったような気がして俺は首を傾げたくなったものだ。
『夏』に関して言えば、たぶんイタリアの夏と日本の夏には差分があるということだろう、と思うことにしている。
暑くて蒸していて明るくてまぶしくて、という日本の夏のイメージをもってこの曲を聞くと、
静かで物悲しい音から始まる冒頭部で拍子抜けしてしまう。
どうやらこれは暑い明るいまぶしい、という夏の曲ではない。
夏が連れてくる灼熱、渇き、そして風雨と雷鳴の曲なのだ。
必ずしも恵みではないかもしれない、夏の嵐。
演奏の合間にちらと目の端に映る彼女の姿は、真剣な観客そのものだった。
あ、と俺はそのとき、何かに気がついたような心地がした。
その何かがなんなのかがつかめそうだと思ったときに、ヴァイオリンの音が揺れた。
俺はそれで思考を放棄して演奏に意識を戻してしまった。
彼女のまっすぐな視線が、遠慮なく肌に刺さる。
その痛みだけはひしひしと感じながら、それでも俺はもう余計なことは考えていられなかった。
格好をつけようなんていうことはもう頭の中にはない。
ただただ必死に、真摯に、意識のなにもかもを傾けて、俺は音を紡ぎつづけていた。
しまいに俺は、彼女が聞いていることも忘れてしまった。
気づいたときには最後の一小節の余韻があたりに霧散していくところだった。
彼女はぴょんと椅子から立ち上がり、頬を紅潮させ、一生懸命拍手を贈ってくれた。
俺は一瞬ぽかんとその様子に見入ってしまった。
なにやら額が汗ばんでいる、うわ、そんなに熱入ったか、俺。
「すごい! 食満くん、すごいね!」
「あー……ウン、今のは良かったかも。出来がじゃなくてノリがだけど。
 ちょー気持ちいいってこういう感じかも」
「アハハ、金メダルだ」
彼女はおかしそうに笑った。
「スタンディング・オベーションなんか初めてだな。観客ひとりだけどウレシイもんだな」
「だって、……よかったよ、ほんとに」
彼女はまだ興奮醒めやらぬ様子でそう言った。
「すごいね、食満くん。お世辞じゃないよ。
 私ヴァイオリンは専門じゃないけど、食満くん上手だよ」
いつもいつも人と比べて卑屈になっていた俺に、
彼女のその言葉は不思議とすんなりしみ入ってきた。
俺の音楽に立ち上がって拍手を贈り、誉め言葉をくれる人がいる。
それも、そいつは音楽のある一分野で相当の実力を誇る人物だ。
俺が意識せずにいられない悪友が──潮江文次郎が、心底から認めざるを得ないような実力者。
あんなにも俺をがんじがらめにしていた劣等感が、そのとき音を立てて崩れ落ちた。
頬に熱がのぼる。
まぶたがじんと熱くなったが、さすがに泣くわけにはいかない。
「……ありがとう」
ちょっとかすれたような声で、そう答えるのが精一杯だった。
彼女は嬉しそうににこっと笑って、うん、と頷いた。
ヴァイオリンをしまいこんで、俺はそのとき俺のことで手一杯で、
彼女にピアノを演奏して欲しいと請うことをしなかった。
練習室を出る前に部屋の電気を消そうとスイッチに手をのばしたとき、
大量の荷物を抱えている俺を気遣ったのだろう、
同じように電気を消そうとした彼女のそのゆびが俺のゆび先にぶつかった。
ぱっと電気の消えた中で、お互いにあ、と少し気まずいような声を上げる。
ドラマかなにかならたぶんこの場でキスシーンにもつれこむところなんだろうが、現実にはそうはならなかった。
ごめん、ととっさに謝り合って、なんだかギクシャクしながら練習室を出る。
エレベータを待つあいだも、乗り込んでからも、このどこかいたたまれない空気は消えていかなかった。
ヴァイオリンを挟んでよこしまな思いも打算も計算も消え失せたはずの互いの中に、
それらが苦くよみがえってきてしまった、それを自分で思い知って気まずかったのだ。
それでもエレベータが指定の階に着いた頃には、俺はまたそうして彼女を意識し始めていた。
途切れることを知らないはずの会話が、今は最初から起こらなかった。
鍵を開けて、狭い玄関に入る。
何を考えているのか、お互いに息をひそめたままで、
ただいまだとかどうぞ入ってだとか、お邪魔しますとか、そんなことも言い合うのを躊躇ってしまった。
カーテンが開いたままの窓やベランダから街のあかりが差し込んで、部屋の中は薄明るい。
あんなにも計算ずくでここまで彼女を連れてきたくせに、
いま、いざ、という段になってみると自分がこれ以上ないというほどまじめくさって
彼女に触れたがっていることを思い知る。
肩越しに振り返ると、彼女はなにか不思議そうな、物言いたげな目で、俺を見上げていた。
それでも口では何も言わないのだ。
ただ察してというなら俺は都合のいいほうにばかり解釈してしまうかもしれない。
なにか迷うように目を伏せた彼女に向き直って、俺は何も言わずに彼女の唇にキスをした。
ヒールの助けのない彼女の唇の位置に合わせるには相当かがまないといけなかったが、
もうからかおうとかなんだとかいうような状況ではなかった。
ヴァイオリンにばかりかまけていて、まともな恋愛をしてこなかった俺にとっては当然、
恋人らしい相手が出来るのもそれらしいやりとりがあるのも初めてなのだ。
身体が緊張してこわばっているのがわかったが、必死でそれを押し殺す。
空腹も疲労も忘れて、ゆびをつないで寝室へ入って、
そのあとはなんだかただ勢いにまかせているような状態だった。
自分でも何をしているのかよくわかっていないような気分だ。
ベッドに倒れこんで、服を脱ぐのも脱がせるのももどかしくて、
そのうち息が上がって、肌が汗ばんで、彼女の髪がのど元に絡み貼りついてくる。
細い手首をきゅっと握ったら、彼女は我にかえって あ、と声をあげた。
「だめ」
「……え?」
「手首はだめ」
顔を真っ赤にして、俺の下で緊張気味に横たわったままだった彼女は、
そのときだけ恥じらいも照れも忘れてまっすぐに俺を見上げた。
裸でベッドの上にいるような今の状況の中で、彼女は今、ピアニストに戻ってしまっていた。
手首はだめ。
演奏にひびくから。
言葉の意味を理解すると俺は大人しく頷いて、彼女の手首を開放してやった。
ぎこちない、いかにも慣れていない様子でそれでもことが終わると、
もう俺も彼女もお互いの顔を見ることもしばらくできなかった。
いつのまにかもつれ合って眠ってしまって、いつになく早い時間にぼんやりと目を覚ます。
彼女は眠っていたが、その顔もやっぱり幼くて、
なんだか悪いことをしたような気持ちがふっと一瞬湧き上がる。
告白もない、約束もない、でも俺と彼女はこれで恋人同士になっただろう。
眠る彼女の耳元で、初めてその名前を呼んでみた。
朝になって彼女が起きたら、照れずに自然に呼べるだろうか。
ちょっと自信がない。

しばらくとろとろと眠ってから、朝の九時過ぎに俺はふたたび目を覚ました。
彼女はふとんのなかでくるんと丸まって寝ている。
本当に子どもみたいだ。
言ったらたぶん怒るから言わないが。
起き出してまず、まだなんとなくぼやけた頭でやかんを火にかける。
マグカップにインスタントのコーヒーをいれると、部屋の中に視線を巡らせた。
外から寝室が覗かれるような間取りでなくてよかったといまさら思うが、
カーテンを閉めるのはすっかり忘れたままだった。
昨夜部屋に戻ってきたときの薄明るい部屋の光景を思い出す。
そのあとの記憶はまるで怒涛だ。
思い返すと気恥ずかしいやら、心臓がばくばくと跳ねるやら。
ダメだ俺、ちょっと落ち着こう、と風呂場に飛び込んだ。
冷たいシャワーを浴びてしゃっきりと目を覚まし、幾度となくよみがえってくる熱を追い払う。
風呂場から出ると、ちょうどそのとき彼女が起きたらしかった。
ベッドの上に起き上がって、なにをどうしたらいいのかわからない、
というふうな困った顔できょろきょろしている。
「おはよう。……?」
自然に呼んだつもりが、彼女の反応はめちゃくちゃ過剰だった。
びく、と肩が跳ね上がって、おいおい大袈裟だなと俺もちょっとびっくりしてしまう。
「……腹減らない? 晩飯抜きになったろ」
「……うん」
「パン焼いたら食う?」
「うん」
「あ、シャワーとか。使っていいよ、テキトーに」
「うん……」
明るい中で見られるのは嫌だと言いたげに、は器用に布団に隠れつつ、
脱ぎ散らかした服を拾い上げた。
パンを焼いて、ベーコンと卵を焼いて、コーヒーを入れなおした頃、
はおずおずと風呂場から戻ってきた。
も少し冷静になれたのか、やっとどうにか会話も回り出す。
もう昼も近いような時間だったが、簡単な朝飯を一緒に食った。
今日が休講日だということもまあ、お互いの計算のうちだったわけだ。
円満に済めば打算も計算もまるでなかったことのように遠くかすんでいく。
なんというか、現金なもんだ。
皿洗いと片付けはやるねとが引き受けようとしてくれたので、一緒に台所に立って片付けを始める。
日々当たり前にやっていることがなんだか妙に楽しいというのはどういうことなのだろう。
時間は飛ぶようにすぎていく。
そのあいだに俺は彼女をと名前で呼び捨てることにやっと慣れた。
彼女もそう呼ばれることに少しずつ慣れてくれたが、俺のことはまだ“食満くん”と呼ぶつもりらしい。
昼をすぎてしばらく、外はもう夏の様相で、明るくまぶしく、空気は熱を帯びている。
ヴィヴァルディが日本の夏を作曲したら陽気な曲になりそうだななんて、ばかげたことを考えた。
明るい春の、続きの夏だ。
ふいに、玄関のチャイムが鳴った。
待ってて、とに言い置いて立ち上がる。
「ハイ?」
「とめー。開けろー!」
聞こえた声に俺はさあっと青ざめた。
小平太だ。
いや、小平太ひとりでは絶対にない。
後ろでざわついている声が聞こえる。
「ちょ、待て、今ちょっと取り込み中で……!」
俺に拒否権はいつもない。
予備の鍵がドア枠の上に隠してあることを奴らはちゃんと知っているのだ。
あああ、やばい、やばい、遠慮してくれるような間柄ではない。
玄関先で追い返せたら万々歳だが、勝率は低そうだった。
無遠慮に扉が開けられた。
くそ、全員いやがる。
「留、取り込み中って? 部屋が散らかってるとか? そんなこと全然ないだろ、君」
伊作がドーナツの箱を差し出しながらそう言った。
「いや、違くて……」
焦りながら俺がひらめいたのは、奴らを地下の練習室に誘導することだった。
俺も含め、持ち運べる楽器の所有者は最近は休日も楽器を持ち歩いている。
案の定、仙蔵はヴァイオリン・ケースを背負っているし、
ほかも皆楽譜やら資料やらの入った大きなかばんを抱えている。
「どうせ練習だろ、先に下行っててくれ。
 ていうかなんで先に携帯に連絡とか寄越さねぇんだお前ら」
「大した予定などどうせないだろう?」
当たり前のように仙蔵が言うが、下手な反論が出来なかった。
今この混乱した頭のままでなにか言うとぼろが出るに違いない。
「とめー、なんか飲みもん持ってきてー。おやつもー」
「少しは遠慮しろ小平太! あと練習室は飲食禁止だ!」
言ってから俺はふと、ずっと黙っている長次と文次郎に気がついた。
二人はなにか怪訝そうな目で、俺の足元をじっと見ている。
俺はそれではじめてはっと気がついた。
玄関のすみにちょんと置かれている、八センチヒールののあの靴。
(うわ……!!)
長次がもの問いたげに俺に視線を戻した。
文次郎の視線は吸い付いたようにピンヒールの靴から動かない。
練習用の靴と普段用の靴をそのときどきで履き替えるのだと、の靴のことに言及していた文次郎には、
まだ姿を現していない女の正体までわかってしまっているはずだった。
(……やばいぞ)
焦りのあまりか開き直ったのか、俺は逆に少し冷静になっていた。
追い討ちをかけるように、玄関の廊下と室内を隔てるドアがわずかに開いた。
「あの、食満くん……お客さんなら、私帰るよ」
決定打。
文次郎はまるでなにごともなかったかのように呆れた目を俺に向けた。
ほかの皆もわぁっと沸き立つ。
「女の子がいるぅぅぅ!?」
「ちょ、留、彼女!? 彼女!!?」
「あー……」
俺はがっくり、項垂れた。
計算ずくの一夜のあとの、こればっかりは計算外だ。




(夏の嵐──って、修羅場のことかよこんちくしょう)



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