鬼の里の話 三

が鬼の里へ住み着いてから、おだやかに一年あまりの時が過ぎた。
村落の大人たちは己らの足一本にも満たぬ背の子どもらに惜しげなく愛情を注いで可愛がり、
山野の暮らしに必要な知恵とわざを授けた。
人とは比較にならぬ巨躯を持つ鬼達とはできる仕事が自然違ってくるが、
文次郎もも要領よくそれを心得、それぞれなりに働いて親代わりの老夫婦を助けた。
村落には本当にふたり以外の人間はいなかった。
がやって来て以降はあの洞穴から別の誰かが訪れることもなく、日々はただ平穏無事に過ぎた。
文次郎はわずかばかりより背が高くなり、の痩せぎすの身体は少しふくらんで
少女らしい面差しが見られるようになった。
愛しい子供たちの成長をまわりの大人は優しく見守っていたが、
まだまだいたずら盛りであることに手を焼き頭を悩ませることもしばしばだった。

そんな折である。
雪がやっととけて山のうえにもあおく春の風が吹くようになった頃であった。
人目を忍ぶようにが文次郎のそばへ来ると、誰にも秘密で着いてきてと言った。
文次郎は怪訝そうにを見返していたが、やや強引に袖を引かれて渋々着いて行くと、
冬のあいだに雪に晒されて屋根が朽ちかけた物置小屋へ入り込もうとする。
「ここは危ないから屋根を直すまで入るなとじじが言っていたろう」
「じじさまにもばばさまにも内緒なの」
しい、とは唇の前に指を立てて見せた。
とりあえずのすることを見てやろうと、文次郎は黙って物置小屋へ入り込んだ。
は小走りで奥へ行き、ちいさな木箱の前にかがみ込んだ。
「見て!」
輝くばかりの笑顔で振り返ったの腕に、見慣れぬ生き物が抱かれていた。
「いぬか」
「そう、森のほうから走ってきたの」
「まだ子どもだ」
文次郎はに歩み寄り、その腕の中のいぬに手を伸ばした。
いぬは舌を出して笑っているような顔で文次郎を見上げ、素直に頭を撫でられている。
「人懐こいな」
「かわいいでしょう」
「……どうするつもりだ」
「じじさまとばばさまは、許してくれないかもしれない」
「だから秘密と言ったのか」
文次郎は大袈裟にため息をついた。
「いつかはばれる。ここだっていつまでも放ってはおかん」
「だから……文次郎に相談したの」
は唇をとがらせた。
鬼の里へやって来て、鬼という生き物と文次郎とに慣れてからは、少しばかりのわがままを言うようにもなった。
それも他愛のない少女らしいわがままであり、
可愛らしい範囲を越えない甘えであることは誰にもわかっていたので、これといって咎められることはない。
文次郎はのそのわがままに弱かった。
がそうしてつまらなさそうにそっぽを向けば最後にわかったと折れてしまうのは文次郎であったし、
口喧嘩をして言い負かしてもが泣けば謝るのはやはり結局文次郎であった。
そのたびに文次郎はなんとなく納得のいかないような気もしていたが、
村落の大人達のあいだにおいてもはおなごだからと特別に容赦されることがこまごまと多いような気がして、
世の中の理不尽なことはこんなものなのかもしれないと少しずつ諦めるようになってしまった。
しかし此度こそは誤魔化されんと強く念じて、文次郎は己の思考に従って反論を試みた。
「誰にも秘密で世話なんぞできるか。
 いぬは生き物だ、ひとつところにじっとしてなどないぞ」
「森の奥につないでおくわ」
「森には獣だっている、つながれていては襲われたときに逃げられん」
は抗う弁を失ったようだった。
ふくれっ面をして上目遣いに文次郎を軽く睨む。
「そんな顔をしても無駄だ」
つい頷いてやりそうになる己を奮い立たせるつもりで文次郎は語気強くそう言った。
「森から来たのなら森にきっと親いぬがいる。放してやったほうがいい」
「……この子もうちの子になればいい!」
「じゃあお前が自分でじじとばばに言え。
 じじとばばがいいと言ったら俺もこれ以上反対はせん」
は今度は困った顔をした。
此度のわがままが甘えの範囲を越えていることはも己で自覚しているわけである。
同じように捨ててこいと言われるか、
殺して塩につけ冬のための蓄えにするかのどちらかを辿ることは目に見えている。
の目がうっすら潤んでいることに文次郎は気づいて狼狽えた。
此度ばかりは揺らぐまいといつもいつも思っているのに、そのように運ぶことのほうが圧倒的に少なかった。
「……ともだちができると思ったの」
文次郎はなにも言えなかった。
俺では不足か、とは問いたくなかった。
と文次郎とのあいだにある微妙な距離に、名前をつけるのは難しかった。
兄妹、というほどの密度はない。
ともだち、というほどに他人行儀ではない。
ただこの鬼の里にふたりきりという意識だけが、文次郎の内にもの内にも強く存在している。
ほかの誰でもない唯一絶対の存在。
お互いしかいないという強固な絆が、己らはふたりでひとりなのだ という共通の強い思いをつくりあげていた。
にとって、文次郎がそばにいることは今更言うほどのことではないというくらい当たり前のことなのである。
がいまを不満がってそう言っているのではないことは、文次郎にはよくわかるような気がした。
外界との繋がりの断たれた鬼の里は皆が家族のように親密に関わり合っていて暮らしよい楽園ではあったものの、
自に対する他というものがまったくない、これ以上ないほど閉鎖的な空間でもあった。
外を知りたい、新しいなにかを得たいという、
老いた鬼たちにはない欲求がの内に強く芽ばえているのである。
限られた楽しみを繰り返すことは毎日毎日同じ程度は楽しいが、同時にゆるやかに退屈してもいるようだった。
の気持ちは文次郎にはよくよくわかったが、翁と媼とに見つかった際にはどうなるか、
考えるとこのいぬが気の毒である。
文次郎はだから、の味方はしてやれなかった。
それで此度は泣く泣く、が折れた。
「……桜の木のとこにいたの。そこに置いてくる」
はべそをかきながら、見るからにしゅんとした様子で小屋を出ていった。
その後ろ姿を見ていると、たちまちのうちに悔いるような念が文次郎の内にわき上がる。
文次郎はしばらくぐらぐらと頭を悩ませたが、やがてため息をつくとを追って小屋を出た。
俺もなんだかんだには甘いと思いながら、
しかしが嬉しそうに微笑んだ顔を見られるのならそんなことはどうでもいいと開き直ってしまう。
これまでに何度そうして己で己の言を撤回したかしれない。
自分も一緒に頼んでやるからと、そう言ってやればはきっと喜ぶだろう。
すでに姿の見えないを追い、文次郎は森を少し入った位置にある桜の木を目指し、早足で歩いた。

はすんすんとちいさくしゃくり上げながら、いぬを抱きかかえてゆるやかなのぼりの道を歩いていた。
この愛らしいいぬがそばにあれば、どんなにか日々が楽しくなることかしれない。
文次郎も一緒に世話をすれば、数日もたたずに情が移るに違いないのに。
こぼれ落ちる涙が、いぬのひたいの毛を濡らしていく。
いぬはなぐさめるようにきゅんと泣いた。
「ととさまとかかさまのところへお帰りね。
 ほんとうの家族のいるところのほうが、幸せかもしれないもの」
言いながら、はその言葉をぼんやりと、己の境遇のうえに重ね合わせた。
がいま身を置くのは、鬼の老夫婦の家である。
文次郎とも血のつながりはない。
それでも皆が皆、いまやにとってかけがえのない家族であった。
「……でも、私はいまもきっと幸せよ」
皆が大切にしてくれて皆が守ってくれて、皆が愛してくれる。
足りないものなど何ひとつもあるはずがない。
「ともだちなんかできなくてもいいの」
いまで充分満たされているんだもの。
は己に言い聞かせるように言った。
それはそれで本心でもあった。
ただ少し、繰り返すばかりの日常に、新しい色を見てみたかっただけなのである。

うっすらと色づいた咲き初めの桜は、まだ少し冷気を含む春の風にふるふる、震えていた。
はその下で足を止めると少し考え込み、いぬの首にちいさな鈴をくくりつけてやった。
翁と文次郎とに拾われたとき、が身につけていたもののひとつだった。
あとから媼が赤い糸を縒った紐をくれたので、はそれで鈴を首から下げていたのである。
いぬは心地悪そうに身をよじった。
鈴の音がころころ甲高く響くと、耳障りと言いたげに首を振り、いきなりぴょんとの腕から飛び出してしまった。
「……あ!」
の手がつかまえるよりもわずかばかり早く、いぬは桜の木の枝に飛び上がり、
の手の届かないところまでのぼっていってしまった。
「ど、どうしよう……」
いぬは足場の不安定な枝のうえで、なおも身をよじって鈴を振り落とそうとする。
はしばらくハラハラと見上げていたが、仕方なしに木の幹に手足をかけ、どうにかしてのぼっていこうと試みた。
荒い木の肌が、の柔らかい内腕を傷つけた。
かすり傷に淡く血がにじむ。
はそれでも歯を食いしばってどうにか木をのぼった。
己の身長分ほどの高さにのぼっただけで、地面を見下ろすとめまいがするほど高く思われた。
勇気を振り絞って更に、というとき、後ろから追ってきたらしい文次郎がを呼ぶのが聞こえた。
はびくりと振り返る。
「、なにをしてる、お前」
「だって、いぬが」
枝のうえで震えているのはいぬもも同じに見えて、文次郎はぎゅっと顔をしかめた。
、まずお前が降りろ。俺がかわりにのぼるから」
「いい、自分でできる」
は差し伸べられた文次郎の手から逃れるように、無理矢理にいぬのほうへと背伸びした。
ぐら、とつかまっている枝が揺れる。
太い枝もしなり、の足場も、いぬのいる枝も揺れた。
「きゃあ!」
!」
慌てて駆け寄ろうとしたもののどうすることもできない文次郎は、
そのまま落ちてきたを受け止めるように下敷きになって転ぶよりほかになかった。
どしんと嫌な音が響く。
この顛末の元凶たるいぬは、ぴょんと器用に降り立つと、目にもとまらぬ速さで駆けていってしまった。
「文次郎……文次郎」
痛みと重みにしびれて動けないでいる文次郎には必死で呼びかけた。
「ごめんね、怪我してない、文次郎」
目に見える怪我や流血はなかった。
しかし全身に走る鈍い痛みをどう説明してくれようか。
文次郎はもう言葉を発すもままならず、涙目でをにらみあげた。
はそれで叱られたようにぎゅっと萎縮した。
「ごめんね」
「……もういい」
いぬも行ってしまった。
文次郎はぎこちなく身体を起こし、に向き合った格好であぐらを掻いた。
のほうが泣きそうになっているのを見て、また呆れた息をつく。
黒々と美しい髪を乱す枝や葉を払いのけてやり、文次郎は呟いた。
「……もうお前、木になんかのぼるな。
 おなごは大人しく可愛くしているのがいいとばばも言っていた」
「でも……」
「お前ができないことは全部俺がやってやる。
 だからお前はもう危ないことはするな」
いいな、と念を押すと、はあまり納得できないと言いたそうな顔をしていたが、
己の無理をした結果がいま文次郎に痛みをもたらしているという実際を目の当たりにしてしまうと
反論もできないのであった。
は渋々、うんと頷いた。

手を繋いで家まで帰る道々、それでも文次郎は今日のことは秘密だと言った。
大切に大切に育ててくれている翁と媼に、
それ以上を求めている己らを知らしめることはつまるところの親不孝と考えたのである。
はちいさくうん、と答え、繋がれたゆびにかすかに力を込めた。
いちばんそばでいちばんをわかってくれているのは文次郎だと、も自分で理解していた。
ふたりはそれから一言すらも交わさずに歩いたが、つながれた指先からお互いの体温が行き来するように、
なにを言わずとも自然と理解し合うことができた。
一生一緒に生きていく、ふたりでずっとそうしていく、その具体的な想像などいまはできなくても、
己らを待つ未来をふたりはちゃんと知っていた。




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