鬼の里の話 四

人の里の話である。
雪がとけ始めなんとか歩く道も見分けられようという頃から、町のお役人たちが村の周囲の見聞に訪れる機会が増えた。
町と町とのあいだを結ぶ街道を敷いている最中で、村がちょうどその中間点にあたる位置に存在しているのだという。
そもそもは村を経由する予定はなかったはずが、距離の長い道になるため、
途中に中継地を設けて旅人の足を休める場をつくることが切望され、
その候補の地として村に白羽の矢がたったのである。
山奥深くひっそりと暮らしてきた村人の中にはこういった変化を好まない者もいたが、
この夏から冬に大飢饉におそわれたことがそれ以上に人々の内にこたえていた。
道ができ人が増えることで村にはさまざまなものがもたらされるはずである。
金子なり食糧なり道具なりと中身はさまざまなれど、
それがそれぞれなりのかたちでもって村人達を生き長らえさせる手段に取って代わることは容易に想像がついた。
とんとん拍子に話は進み、春の山に花がほころび始める頃には町から村へ少しずつ人が移住し始めていた。
小さな畑を耕しながら暮らしていた村人のあいだに、
まったく違うことを生業とする人々がそうして混じって生活が回り始めた。
町からやって来た人々は、村人達の古風で閉鎖的な考え方に否定的であった。
近代的な技術とそれによる暮らしの進歩を好み、不便な生活は容赦なく切り捨てる潔さを彼らは持つ。
さまざまな対話の中で、村の人々は町からやって来た新たな住人達に“鬼の里の話”も語って聞かせた。
しかし大半の人間はそんなものは迷信に過ぎないと、笑って信じようとはしなかった。
村へ越してきたいくつかの家には、同い年の数人の子どもがあった。
狭い土地で彼らはすぐに打ち解け仲良くなり、
雪がとけきるのも待てぬと言っては大人達の止めるのも聞かずに山へ分け入って暴れ遊びまわった。
町育ちの子どもたちには、村も山もなにもかもが物珍しい。
村の大人達に山を歩く際の心得を聞いたり、野良仕事の真似事をさせてもらったりと、
彼らは子ども特有の柔軟さを発揮していち早く場の生活に慣れていった。

ある日、春は山菜の季節だと聞いた子どもらは、教わったばかりの知識をさっそく試しに山へとのぼっていた。
母いぬと生まれたばかりの子いぬを二匹、連れている。
子どもたちだけ山へ野放しにしても、いぬがいれば安心だろうと大人達がそれなりに考えた結果であった。
山菜採りに夢中になって奥へ奥へと進むうち、
子どもらはこれまで来たこともないような薄暗いところへ入り込んだことに気づいた。
村の爺が怪談でも語るように聞かせてくれた、鬼の話が脳裏をかすめる。
「あの洞穴って、ここらへんにあるのかな」
皆できょろきょろと見回すが、あたりは木々ばかりであった。
子どもたちは山菜のことを徐々に忘れ、“鬼の里へ通ずる道”を探して山の中を彷徨った。
怯える子どもがもう帰ろうと何度も皆の袖を引いたが、誰も言うことを聞こうとしない。
ねえ、鬼にとって食われるって言われたでしょ、と泣き声で訴えがかかったとき、
子どもらは初めて子いぬが一匹ないことに気がついた。
「僕らのかわりに鬼に食われたのかもしれない!」
子どもらは震え上がって、わー、と一目散に山を駆け下りた。
せっかく採った山菜も途中の道にぼろぼろこぼし、着物は破け身体中かすり傷だらけで、
帰りの遅いのを心配して探しに来ていた親たちには見つかるなりきつく叱られた。
翌朝になったら子いぬを探しに行くようにと言われ、子どもらは怯えながら夜を過ごした。
いたずら好きの己らこそが次に鬼にとって食われるのかもしれないと思うと、
明日からいい子になりますからと神さま仏さまに祈らずにいられないのであった。
そうして翌朝、子どもらはいなくなった子いぬの母いぬを連れてふたたび山へとやって来ていた。
己らが落としてきた山菜のあとを追っていけば、昨日の道順は明白である。
明るく静かな山の中に、風が吹けばざざ、と葉の鳴る音がする。
己ら以外のなにものもいないはずのそこに、見えないなにかが息づいているようで、
子どもらは初めて山というものの得体の知れない恐ろしさとその懐の広さ深さを思い知った。
唐突に、母いぬが吼えて走り出した。
子どもらはわけもわからずそのあとに着いていく。
走って走って、追いついた先に、いなくなったあの子いぬとその身を舐めてやる母いぬの姿があった。
鬼に食われたと思っていた子いぬが無事の姿で戻って来たことには安堵するやら驚くやら。
子どもらはわらわらといぬたちに寄っていってその毛並みを撫でてやった。
そうした誰やらの指が、子いぬの首にくくりつけられていた鈴を鳴らした。
「鈴がついてる」
「こんなものをつけていたか?」
「いいや、ただ裸だった」
子どもたちは黙りこくって子いぬを見つめた。
あ、と誰かが怯えた声をあげる。
目を上げた先に立ちはだかる岩肌の、そのふもとにぽっかりと、洞穴があるのが見えた。
腐りかけた注連縄が辛うじて張られている。
誰も口に出しては言わなかったが、これがあの“鬼の里へ通ずる道”であるのだと皆がそのとき直感していた。
「父さんは迷信だと言ってた」
「でも」
子いぬの首の鈴をころりと鳴らした。
「誰か人が住んでいるんだ。それが証拠がこの鈴だ」
「いぬは小さいから、鬼も腹に足らんと食わなかったのかもしれん」
皆は躊躇しながらぼそぼそと言葉を交わしたが、その好奇心はわずかに恐れながらも洞穴の向こう側へと注がれた。
行こう、とひとりが言いだして一歩を踏み出せば、全員がそれについて洞穴へと踏み入った。
洞穴は暗く長く空気はこもって、出口のあかりもちらとも見えなかった。足先で地面を探り探り、そろそろと中へ進む。
気の遠くなるほどの時間を来たと誰もが思ってびくびくとし始めた頃、
あの子いぬがきゃんとひと鳴きして、洞穴の奥へと走り始めてしまった。
「あ! 待て!」
追って走り出すと、置いていかれるのが恐いと言って皆が走り出す。
子どもたちはそうして、あっというまに鬼の里へと通ずる道を駆け抜けた。
視界が開けたそこは、明るく太陽の光を惜しげなく浴びる、美しく茂った森だった。


はあの桜の木のそばへやってきていた。
なんとなく、ぼんやりと、思いを馳せているうちに足がこちらへ向いていたのである。
文次郎は翁の頼みで家の仕事を手伝っており、はいまはひとりだった。
昨日のぼった枝を下から見上げるとそれほどの高さには見えないのだが、
実際にそこへのぼって見下ろすと足がすくんで動けない気がしたほどだった。
あのいぬはどこへ行ったかしら、まだ鈴はついているかしらと、は思いながら桜を見上げた。
風の強い日であった。
まだ咲ききらない桜もこのまま散ってしまうのではと思わせるような強風が吹きつけ、
の髪にゆるく巻き付けてあった幅の広い髪紐をさらって巻き上げていった。
「あ!」
風はくるくる、その紅色の紐を空に踊らせ、桜の木の枝に引っかけるとどこやらへ吹きすぎていった。
は途方に暮れた。
昨日はいぬで今日は髪紐。
媼が譲ってくれた中でも気に入りの布を袋状にたたんで縫い上げたものである。
そうして少しばかり飾ってみせると、文次郎はこのところ一瞥をくれたきりふんとそっぽを向くだけだったが、
翁と媼は喜んで誉めてくれる。
はおろおろと枝を見上げるばかりであった。
もう木になどのぼるなと文次郎に言われたのが心の内に引っかかっていた。
手伝いが終わったら追いつくから先に行っていいと文次郎は言っていたのだが、待って一緒に来れば良かったと思う。
いまから呼びに行くにしても、
目を離した隙に髪紐がまた風にさらわれて桜の枝から飛んでいってしまうのではと思うとどうにも動きがたかった。
はしょぼくれて、どうしようもない思いで桜を見上げながら、そこに立ち尽くすよりほかはなかった。

子いぬは見知った道をゆくようにぴょこぴょこと走り続けている。
子どもらと母いぬとはそれを追いかけ、洞穴を越えた先の森を駆け抜けているところだった。
もう帰ろうよと誰かが泣き言を言い、誰もがそれに従いたかったが、またいぬを見失って帰ると大人に怒られるのも恐かった。
必死で走り続けていると、森の木々は少しずつその間隔を広め、やがてぽかりと開けた空間に出た。
子どもらはその光景を目にして走る足を止めた。
咲き初めの桜の古木がたっており、薄く咲いた花をこの世のものとは思えぬほどの美しい少女が見上げていた。
黒々と艶やかな髪が風の吹くままに揺れている。
抜けるように真白い肌と淡く色づいた唇のその色の妙こそは人間のそれとは思えぬほどで、
これが噂に聞いた鬼ならばこの言い表しようのない美しさこそがきっとおそろしいのだと、
子どもらは子どもらなりにそう悟った。
子いぬは臆せず走っていって、ぴょんと少女の足にじゃれついた。少女は驚いて振り返り、
いぬを見つけると輝くばかりの笑みを浮かべて喜んだ。
「この紐、この鈴! お前、もどってきたの」
少女はいぬを抱き上げて嬉しそうに頬を寄せた。
きゅんといぬが甘えた鳴き声を上げる。
ぽかんとしている子どもらをよそに、母いぬが答えて鳴いた。
それで少女はびくりと肩を震わせ、やっと見つめている少年たちに気がついた。
少女は途端戦慄いて子いぬを投げ出し、踵を返すとわっと走り出した。
「あ……、待って!」
なぜそうしたのかはわからなかったが、少年たちは少女を追いかけずにいられなかった。
ただのひと目で誰もが魅了されてしまったのには違いない。
一緒に遊ぼうよと、声をかけても返事はない。
少女の走っていく先から、、と呼ぶ声が聞こえた。
それが少女の名なのだろうかと思う。
「文次郎!」
現れたのは同じ年頃の少年だった。
少女が駆け寄ってきたのを驚いて抱き留め、不思議そうに何事かを問うていたが、
追ってきた少年たちを見るなり彼は青い顔をし、厳しくぎろりと彼らを睨み付けながら少女をその背に庇った。
「何者だ、なぜ、どうやってここへ来た!
 帰れ、ここは貴様らの踏み込んでいい場所ではない!」
というらしい少女は少年の背に庇われたままで顔を見せず、ちいさく震えている。
少年たちはおそるおそる問うた。
「あの……僕たち」
「……お前らが鬼?」
「どうだっていい! さっさと帰れ!
 さもなくば一人ひとり・頭からむさぼり食ってやる!
 さあ最初に死ぬのはどいつだ!」
少年は強引にそう叫んだ。
子どもらはその啖呵に一瞬びくりと震えたが、の声がかぼそく、文次郎、と窘めるように呼んだ。
しばしのあいだ睨み合いが続いたが、子どもらのひとりがやがておそるおそる口を開いた。
「……このいぬ、私んちのだ。このあいだ生まれたばかりなんだ」
鈴をくくられたいぬを指して言った。
「子いぬが生まれたら、私が名をつけていいって言われてた。
 でも、村のじじが洞穴に近づくと鬼にとって食われるって言ってたから、こいつはもう食われたんだって思ってた。
 返してくれて、ありがとう」
文次郎はまだ警戒したままで見慣れぬ子どもらをにらみあげていたが、はその礼を聞くと、
そっとその背から顔を出して彼らを覗き見た。
「そのいぬ……」
「鈴をつけたろう」
は頷いた。
「だから人がいるってわかったんだ。それでここに来た、あの、洞穴を通って」
文次郎はちっと舌打ちをして、肩越しにを睨んだ。
「余計なことを!」
「だって……」
「あの、あのさ、と、文次郎っていうんだろ」
文次郎は答えずにまた皆を睨み付けたが、もうそのような威嚇に効果はないようだった。
子どもらは笑って、一緒に遊ぼうよと言った。
「私ら、まだこの村へ来て日が浅いんだ。
 町からこの村へ道を作るから、それで来た。
 いろいろ、教えてよ」
「道……?」
「西の町へ繋がる街道だ。
 村がその中継点になるから、いまいろいろなものをつくっている」
「……聞いたことがないぞ」
文次郎は疑わしそうに呟いたが、
人の里と鬼の里とのあいだにはこれっぽっちの行き来もなかったのだから致し方ない。
改めて子どもらを見やると、確かに山歩きに慣れた村の子どもという印象は薄く、こぎれいでどこかあか抜けた感がある。
文次郎は考えを巡らせ黙り込んだ。
後ろからがそっと袖を引っぱる。
「なんだ」
「もんじろ……私、ばばさまとつくった髪の紐、置いて来ちゃった……」
「どこに」
「桜の木……」
文次郎は頭が痛いと言いたそうに、大袈裟なため息をついた。
「またか」
「文次郎がもう木のぼりするなと言ったから」
文次郎は渋々、子どもらに向き直った。
「……桜の木のところまで連れて行ってやる。
 そこからお前ら、すぐに村へ帰れ。
 そしてもう二度と来るな」
「なんでさ! せっかくともだちになれたのに」
ともだち、という言葉に文次郎とは目をぱちぱちとさせた。
不意を打たれて言葉を失ったままでいるふたりをよそに、少年たちは次々と名を名乗った。
「桜の木のとこ、あそこ、きれいだった。あそこまで戻るのか」
「……こいつが髪紐を置いてきたと」
文次郎にまた睨まれて、はしゅんと俯いた。
「君たちは、兄妹?」
「ちがう」
「……じゃ、ともだち同士?」
「ちがう」
子どもらは不思議そうに首を傾げ合う。
文次郎は構わずにの手を引くと先に立って歩き始め、子どもらもそのあとに続いた。
「なあ、、このいぬ気に入ったんだろ、またこいつ連れてきてやるよ。
 だからまた一緒に遊ぼう」
「うん」
! 勝手に約束をするな」
「でも、文次郎……」
と文次郎とのあいだでは、どうやら文次郎のほうが主導権を握っているらしいと子どもらは察した。
新しいともだちは、鬼の里に住む得体のしれない子ども。
それだけで子どもらは胸に宿るわくわくとした感を誤魔化すことなどできはしないのであった。
桜の木に辿り着くと、文次郎はいとも簡単にひょいひょいと木に登り、
辛うじて枝にとどまっていた髪の紐を掴むと、低い位置の枝へ移ってからぴょんと地面に飛び降りた。
その身軽さに、町から来た子どもらは目を丸くした。
「すげえ! どうやったんだ」
「どうもなにも、……ふつうだ」
文次郎はもごもごと口ごもった。
教えろと請われて、文次郎と数人の少年とが木のぼりを始める。
は文次郎から受け取った紐を髪にちゃんと結び、子いぬと母いぬと戯れて遊んだ。
「あ! これ、村のじじが言ってた山菜」
「せりだ」
幾人かが駆け寄ろうとするのをが止めた。
「ちがう、それは毒ぜり。こっちがせりよ。
 このあたりではいっぱい採れるけど、食べられるのも毒のも一緒に生えてるから気をつけなきゃだめなの」
子どもらは感心した声をあげたが、文次郎にもにももうそれは当たり前の心得であったので、
ふたりは不思議そうに顔を見合わせるばかりであった。

そうして日の暮れる頃には、皆々遠慮のないような、まるで長らくの友のように打ち解けていた。
子どもらは初めて見聞きする山での遊びや知識をふたりから教わり、
まるで大判小判をざくざく掘り当てたような心地で洞穴のところへ戻ってきていた。
見送りに来た文次郎ととが、夕日を背に洞穴の入口に立ち止まる。
「いいか。ここで俺達と会ったことは、村の皆には内緒だ。
 知られたらもう会えなくなる」
俺達も皆には言わんと、文次郎は言った。
なにをそう大袈裟なことをと子どもらは思ったが、
ふたりがあまりに真剣な顔つきでいるので軽々しく笑うこともできなかった。
朝、東の空が晴れたら桜の木のところでと約束をして、皆はそこで別れた。
洞穴の闇の奥に子どもらといぬたちの姿が見えなくなるまで、文次郎とはじっと黙って見送り続けていた。
子どもらは帰る道々、言われたとおりに誰にもこのことは黙っていようとかたく約束を交わした。
村の大人達も恐らくは知らないだろう秘密を自分たちだけが見つけて抱えたということに、
子どもらは幼い優越感を持ってそれに酔った。
明日の空が晴れることを願って、彼らは弾む足取りで村へと向かって山道を駆け下りた。

「……たのしかったね、文次郎」
に言われて、文次郎は簡単には頷けなかった。
は満足そうに微笑んで歩いている。
夕日の赤が森を染める中、ふたりはまた手を繋いで家路を辿っているところだった。
「また明日も会えるかなあ」
「知らん」
素っ気なく答えながら、文次郎はその内心で明日に期待している己を自覚していた。
のように素直に楽しみだとは言えない。
「……じじとばばには、秘密だぞ」
「うん」
ただただ楽しそうなを横目に見ながら、
しかし文次郎は背筋に冷たいものが流れていくような感覚に襲われていた。
双方の里の大人達の目に隠れた、禁じられた遊び。
ひとつ間違えばそれが破滅へ繋がるということを、文次郎は知っていた。
チラとを見やると、嬉しそうに鼻歌など歌って、うきうきと歩いている。
が幸福であるなら、それがいちばんいいと文次郎は思った。
だから危険とわかっていてもやめるわけにはいかない。
己の内にけたたましく響き渡る警鐘に、文次郎は気づかなかったふりをした。

人の里と鬼の里のあいだに、
こうして危うい橋がかかった。
それが後々なにをもたらすことになるのかを、文次郎もも悟ることなどできはしなかったのである。