ネバーランドの子どもたち 01
よりにもよって、転校初日が雨だなんて。
はひっきりなしに涙を流す窓を、その向こうの薄暗く厚い雲を睨み付けた。
ただでさえ気のすすまない転校だった。
まず時期が時期だ。
受験を控えたこの年に、わざわざ慣れぬ環境にいきなり飛び込まねばならない。
それまで狙いを定めていたはずの大学にはどう考えても通えない距離だ。
それに、引っ越してきた先のこの街のほうが人が多くやや都会であるという分、
選べる範囲に存在する大学のレベルが奇妙に上がったというこの悲劇。
元いた街へ戻り、ひとり暮らしをしながら通学することも考えた。
そうすれば元々希望していた大学を受験することもできるし、
十七年を過ごしてきたというだけで心穏やかに生活していけるのも間違いがない。
通学路一本すらもあやういここよりも、
駅からコンビニから役所から避難場所まで把握しているあの街のほうが絶対に安心だ。
しかし、母のことを思うと口に出して言うこともできずに諦めるよりほかになかった。
この時期の悪い唐突な転居は、の両親の離婚が発端だった。
父と別れ、精神的にも参っているはずの母をひとりにすることはできなかったし、
元いた街ではどうやら、父がすでにほかの誰かと一緒に暮らしているらしいのである。
そんな噂を心ない人々に吹き込まれ、とて傷つかないわけでも、気にならないわけでもない。
愛する両親であることは、ふたりが別れてもにとってはかわりのないことだ。
それでも、自分のまわりで確実になにかが変化し、ひび割れてずれが生じてしまった。
できることなら、なにもかもが元通りにうまく巡ってくれるように、再びなればいい。
そんな願いすらも、から元気を装ってみせる母の前ではとても言い出せるわけがなくて、
はひとりで重苦しいかたまりをのどの奥にのみ込んだような思いのまま、
ただただ逆恨みをするように雨雲を睨み上げるしかすべがないのである。
「! 転校初日から遅刻するつもり! ほら傘、見つけたから! 朝ごはんは!?」
「はぁい……今行く」
思いきり不機嫌そうな返事をしてから、はまた窓の外をひと睨みして、
まだ片付かない六畳の自室をあとにした。
「おはよう! なに辛気くさい顔をしてるの! お母さんを見習いなさいよ」
「お母さんは元気すぎるよ……」
狭いアパートのキッチンには、
必要なものを探し回って半端に開いた段ボール箱が数箱積み上げられていた。
「あんたのあのピンク色のマグがいくら探しても出てこなかったのよ」
「もう、あるものでいいよ……ていうか無理矢理朝ごはんしなくたって」
「なに言ってるの! 初日でしょ!
ちゃんと朝ごはんを食べて、頭をすっきりさせていかないと! ほら時間ないんだから」
母の示した先にはどうにかひとり分場所を空けた小さな食卓テーブルと椅子が二脚。
昨日近所に見つけてあった小さなスーパーマーケットで買い入れた、
チョコレートのクロワッサンとインスタントのスープ、
電子レンジで温めたらしいやや破裂しかけたウィンナー・ソーセージにパックのサラダ。
引越初日にしてはなかなかの朝食だとは思う。
「ごめん、フォークも出てこないの」
「わかった……」
仕方がないので、は菜箸でスープを掻きまぜ、指でソーセージをつまんで囓った。
母はキッチンに立ったままでブラックのインスタント・コーヒーを口にし、苦いと呟いた。
降り続ける大雨を見やりながら、しばしぼんやりとする。
どうにかして繋いだはいいが床に置いたままのテレビの画面では、
キャスターが午後の降水確率も80パーセントと予告していた。
「雨女ねぇ」
「そんなことないよ」
「あんた、生まれた日も雨だったわ」
生まれたと同時に晴れたのよと、母はなにか思いを馳せるように言うと、ふっと笑った。
「それがもう高校三年」
「お母さんも年とるわけでしょ」
「言うようになったわね……」
楽しそうに声を立てて笑って見せ、母は煙草を取り出すと火をつけた。
父との仲が少しずつうまくいかなくなって、母の喫煙量は増えた……ように、には思えた。
「身体に悪いよ」
「そうねぇ。わかってるのよ」
煙を吐き出しながら、母は囁くように言った。
その姿がなんだか痛々しく見えてしまって、はつとめて母から視線をそらすと、
クロワッサンを噛み砕くことに集中した。
の内心に気付いているのかどうか、母はじっとのその様子を見つめていたが、
諦めたように息をついた。
「制服、間に合わなかったわねぇ」
「急だったからね」
言ってしまったあとではハッとしたが、母はなにも気にしない様子で、
うん、悪かったわと笑った。
気付かぬ振りをしてくれたのかどうか、それもには判じ難かったが、
蒸し返す勇気などなくて仕方なく話題をすすめる。
「いいよ、気にしないよ……しばらく前の学校の……このブレザーで行くから」
「こっちの学校はセーラー服だっけね……懐かしーい感じの」
「私、中学もブレザーだったし。セーラー初めてだから、ちょっと楽しみかも」
笑ってみせるが、本当はそうして悪目立ちしてしまいそうなこともたまらなく不安でもあった。
時期外れの転校生が受け入れてもらえるものかどうか。
それも、いかにも転校生ですと言わんばかりの格好ではしばらく馴染めるわけもない。
新境地に飛び込む側に回るのは、は初めてだった。
学校行きたくない、とは、けれど母には言えなかった。
悪いけどお昼はどこかで買ってねと千円札と傘を握らされ、
この土地には馴染まないが着慣れたブレザーに身を包んで、は雨の中に踏み出した。
ばたばたと大粒の雨が傘の布地を叩く。
道に迷うことも想定して少し早めに出てきたが、それにしても人のいない道であった。
周囲は雑多な住宅街である。
元いた街より都会だと一応は言えるが、都心からは少し離れた場所であり、
雰囲気はあまり洗練されたものとは言えない。
きょろきょろとあたりを見回しながら、
通学路の予習をした際暗記した目印の看板や店や大きな道路を探し、は頼りなさげに歩いていった。
自信のないままなんとなくこちら、あちら、と歩いていると、
いきなり道筋に関わってこないはずの児童公園に突き当たる。
「ああ、やっちゃった……?」
手元に地図はない。
はガックリと肩を落とした。
ガードレールに守られた公園には、
ちいさなジャングルジムやシーソー、ブランコなどが配置され、
遊んでくれるはずの子どもたちを待っていた。
ビビッド・カラーの塗装がところどころ剥げかけているのが今は雨にさらされ、
その光景は妙に切なく迫ってくるようである。
感慨にふけっている暇などない、学校へ行かなくちゃと踵を返そうとすると、
ふと、の脳裏に切れ切れの光景がはじけ飛んだ。
(え……?)
一歩を踏み出そうとした足が止まる。
今の自分の目線よりもかなり低い視界、
ジャングルジムの上から手を差し伸べる誰か、ブランコに乗る背を押してくれる誰か、
走り回って一緒に転げた誰か、
笑って、笑って、笑って、いつまでも明日なんて来なくてもいいというほど楽しかった一日の記憶。
(私……この場所知ってる……?)
不思議な既視感にとらわれる。
しかしそんなはずなどなかった。
は生まれてから十七年ずっと、一昨日あとにしたあの街で暮らしてきたのだ。
知らないはずの街の記憶。
は急に寒気とわずかな恐怖に襲われて、ふるりと身を震わした。
腕時計を見やると、もう十分もすれば予鈴のなってしまう頃である。
後ろ髪を引かれるような思いも抱きながら、しかしはおののくようにその場を離れた。
早く学校へ行かなくちゃ、早くあの場所から離れなくちゃ、
ふたつの思いが足を滅茶苦茶に動かし、はいつの間にか必死で走り始めていた。
肩に食い込むかばんの重み、風の抵抗を受けてゆらゆらしなる傘、
ブレザーにもチェックのプリーツ・スカートにも容赦なく雨は染み込んできて、
の身体の自由をじわりじわりと奪っていった。
(やだ……! ここ、なんか……恐い……!)
泣きそうになりながら必死で角をひとつ曲がると、その正面に探していた学校の門がそびえていた。
予鈴はもう鳴ったあとなのか、には聞こえなかったが、
通学途中の生徒の姿はまったくと言っていいほど見かけられなかった。
肩で息をしながら、はしばらく身動きすることもできなかった。
ちょうど通学指導の期間ででもあったのか、
登校途中の様子にはとても見えない・傘をさした男子生徒がふたり、校門の前に立っている。
違う学校の制服を着て知らぬ顔で校門を通り過ぎるわけにもいかず、
は心臓をばくばく言わせながらも勇気を振り絞って一歩を踏み出した。
が視界に入ったのか、引き上げようとしていた男子生徒二人が振り返る。
「あ、あの……今日からこちらに転校してきたんですが……」
職員室へ行きたいんですけど、とは消え入りそうな声でなんとかそう言った。
ふたりの生徒は物珍しそうにを見ていたが、ややあってひとりがああ、と口を開く。
「案内しますよ」
「ありがとうございます」
「……三年?」
「はい」
「じゃ・同じ学年だ……敬語は」
「あ、はい」
口調が砕けても構わないかという問いであるはずが、
がまたしてもはいと答えたので男子生徒はふっと笑った。
「三年A組の、立花仙蔵です。一学期までは生徒会の役員なので」
こうして生活指導の手伝いなんぞをやらされて、と仙蔵はにこやかに愚痴を言った。
整った涼やかな顔立ちをしていて、微笑まれると条件反射のように笑い返さずにいられない。
「そちらも同じクラスの、潮江文次郎。こいつも一学期までは生徒会のラスボスを」
「らす……」
ああ、生徒会長、とは半端に笑った。
仙蔵に指し示され、ずっと黙って傍らに立っていた文次郎をは初めてまともに見やった。
しかし目のあった瞬間、うっと身を引いてしまう。
睨まれた、と思った。
なにも悪いことをしていないのに!
それを察したのか、狙い通りだったのか、仙蔵はさも愉快そうに肩を震わして笑い出した。
「文次郎……転校生が恐がっている」
「うるせぇよ」
茶飯事であるのか、文次郎はそれ以上反論せずにに向き直った。
改めて対してみると、文次郎の目の下にはやや目立つ濃い隈がある。
印象の恐い気がしたのはその効果によるところでもあったようだ。
「A組になるようだったら、面倒見てやる」
「あ、クラスはまだ聞いてなくて……」
「三年は進路別編成だ」
それも、A組は国公立大学進学志望のものが中心だと文次郎は呟いた。
さりげなく成績の良さを自慢されているようにも聞こえたが、
はとりあえずにこにこと笑い返しておいた。
こちらの大学進学事情はまだよく把握していない。
前の学校の成績を元にレベルをあわせたクラスに組み入れられるか、
進路希望によりけりで何度かクラスが変わるかのどちらかだろう。
できれば最初に馴染んだクラスにそのままいたいなと、は思った。
「もう本鈴が鳴るな……行くぞ転校生」
「あ、私」
自己紹介をしていないことに気がついた。
はやや慌てて、居住まいを正す。
「っていいます」
よろしく、と言おうとして、は違和感に気付いてわずかに身を竦めた。
名を聞いて、文次郎と仙蔵とはぴくりと反応し、鋭く振り返った。
「……?」
「……あのか?」
「え?」
怒っているような表情で迫られ、は一歩二歩とふたりから退いた。
文次郎が早足でに歩み寄るとその両の腕をつかまえる。
同い年の少年が想像以上に力強く逞しいことに、は驚く余裕もなくただおびえ震えた。
「なんで戻ってきた! なにを考えていやがる!」
「わ、私……」
腕に食い込んでくる文次郎の指の力に痛みすら覚えて、は右の手から傘を取り落とした。
「い、痛い」
「文次郎、……やりすぎだ」
仙蔵に諫められ、文次郎は我にかえったようにはっとすると、すまんと言ってやっとを開放した。
泣きそうになりながら文次郎と距離をとるを見やり、
仙蔵は息をつくとの落とした傘を拾った。
「だが私も文次郎と同じ意見だ……とても賢明とは思えん。なぜ帰ってきた」
傘を受け取ろうとして、指先が震えた。
ふたりの言っている意味などわずかもわかりはしなかった。
一言も絞り出すことのできないを見、ふたりは答えを聞くことを諦めたようだった。
とりあえず学校に戻ろう、とふたりはを視線で促しながらも校舎のほうへ足を向けた。
はしばらく呆然となりながらも、
この朝のあいだに起きた数々の不可思議に意識を絡め取られていた。
(あのふたりは……私のこと知ってるの……?)
の記憶の及ぶことではなかった。
(いったいなんなの……どうなってるの……?)
誰も答えてなどくれない。
ぞわりと、背筋を冷ややかな感覚がなぞっていった。
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