ネバーランドの子どもたち 02

結局ほぼ全身がびしょぬれの状態だったは、午前中いっぱい・授業に参加することもかなわなかった。
保健室に用意されていた着替えはセーラー服ではなく指定のジャージとトレーナーで、
仕方がないとは言え少々がっかりしながらはそれに袖を通した。
養護教諭の新野は、の世話を焼いてくれながら「災難でしたねえ」と苦笑した。
養護教諭が男性教員というのも珍しいとは思う。
新野は見たところ四十代なかば、優しい面差しと穏和な口調がの不安感をやわらげるのに一役をかってくれていた。
着替えを終え、これでどうにか見たところはこの学校の生徒らしい装いができたとほっと息をついたとき、
失礼しますと廊下から声がかかり、ひとりの男子生徒が遠慮がちな仕草で中へ入ってきた。
手にはなにやら書類を一部持っている。
それを新野へ提出し、なにやら報告らしいことを言いながら、
その生徒は見かけぬ顔・ジャージ姿のにチラと視線を寄越した。
気付いて、新野が紹介をしてくれる。
「今日から三年に編入される、さんですよ。雨に降られたそうでね、びしょぬれだったものだから」
は恐縮そうに肩をすくめた。
さん、こちらは保健委員長の善法寺伊作くんです。あなたと同じ三年生ですよ」
「……善法寺伊作です」
優しそうな面差しの彼はそう名乗るとにっこりと微笑み、軽く会釈をしてくれた。
も倣って頭を下げる。
「クラスはどこに?」
「あ、まだ決まってなくて……」
「そうなんだ」
彼はまたにこりと笑った。
「C組だといいな。そうしたら一緒だ」
「あ、はい!」
校門の前で出くわした文次郎や仙蔵とは違う友好的な態度には素直に喜んで頷いた。
伊作は報告の続きを終えると、なにかあったら遠慮なく頼ってねとにも丁寧に言い置いて保健室を出ていった。
「……優しそうな人ですね」
思わず言うと、新野は微笑んだ。
「ええ、優しいいい子ですよ。委員会活動にも大変熱心で、ずいぶん助かっています」
ただ、と新野はそこで一拍おいた。
「なぜかトラブルに巻き込まれやすい生徒でしてね。
 本人は回避の努力をしているのですが、どうも大変な目に遭いやすいようで」
新野は困ったように笑った。
「運に恵まれないと言いますか……
 この書類もそうです、トラブルがなければ昨日の昼にはもらえていたはずでした」
はあ、と吐息混じりに答えつつ、は伊作の笑顔を思い返していた。
不運かどうかは今は知らないからさておいて、
彼はしかしの内心のもやもやとしたものをやわらげていってくれた。
新しい環境に馴染めるかどうかは今もまだ不安ではあるが、
彼となら少し親しくなれるかもしれないと、淡く期待を抱いた。
着替えたあとでは生徒指導室に招かれ、成績と進路、クラス分けの説明を学年主任だという教員から受けた。
「前の学校の先生から、成績表が届いている。
 それを元にクラスを決めるとするとB組というところだが、進路はどうするつもりかな」
「はあ……地元の大学に進学するつもりでいましたけど……」
こうなってしまうとそれも難しい。
つまりはほとんど決まっていない状態だなと結論付け、教員はペンの頭でこめかみのあたりをガリガリと掻いた。
「……ま、授業のレベルとしては比べて遜色ないだろう。
 C組でもいいかもしれんが、こっちは専門分野に特化した選択授業が多いからな」
先程会った伊作がC組だと言っていたのを思い出した。
この流れだとどうやら、彼と同じクラスにはなれなさそうだ。
は少しばかりそれを惜しく思った。
いくつかの選択授業と実技をともなう授業の説明を聞き、
プリントや数冊のワークブックやを受け取った頃には昼休みを知らせるチャイムが鳴った。
「お、昼か。、昼飯の用意はあるか? 購買部も食堂もあるが」
「どっちかに行きます」
「そうか。じゃあな、午後からB組の授業に入ってもらうことにするから……B組の教室に案内するか」
まさか今? とは思ったが、教員は歩き始めてしまう。
はあたふたと荷物を抱え、そのあとについた。
三年B組の教室は大騒ぎのただ中にあった。
教員が転校生を紹介する声も、購買部から買い占めてきたという焼きそばパンの奪い合いに掻き消されてしまう。
ああ、もう、最悪と、はその場にしゃがみ込みたくなってしまった。
よく見ると、教室内部には妙に女子生徒の姿が少ない。
パンを争う男子生徒の群に隠れているだけかと思ったが、そういうわけではなさそうだった。
隣でまだを紹介しようとしていた教員はとうとう諦め、教室内に視線を走らせるとひとりの生徒に目を留めた。
「おおい、中在家。ちょっと」
窓際の席で我関せずと本を読んでいた生徒が、迷惑そうな視線を寄越す。
読書の邪魔をされて不愉快だと、その目はありあり語っていた。
中在家と呼ばれたその生徒は立ち上がると、ゆっくりとした足取りで歩み寄ってきた。
立てば見上げるほど背が高く、冷ややかに見下ろしてくるようかと思った目は、
耐えて見返してみると静かで穏やかであるのだということがわかった。
「すまんが、転校生の面倒を見てやってくれんか、慣れるまでな」
彼はうんと頷くと、のほうに視線を戻す。
「……中在家長次」
「あ、です。どうぞよろしく……」
名乗った瞬間、長次の目元がぴくりと引きつったように見えた。
文次郎と仙蔵とに名乗ったときにも感じたような違和感がまたわき上がる。
また、と震えそうになったところ、教室のど真ん中から長次、パス、と叫ぶような声が彼を呼んだ。
長次はゆっくりとした仕草でその声に振り返ったが、
その瞬間には投げつけられたらしい焼きそばパンを目の前でぱしんと受け取っていた。
「小平太。少し静かにしろ」
「んー? おおおお?」
騒ぎの中心にいた生徒を長次は諫めた。
呼ばれて初めてその生徒は長次の横に所在なさげに立ち尽くすに気付いたらしい。
興味の矛先が一気にのほうへぶれたらしく、彼は机も級友もずかずかとかきわけてふたりのほうへ寄ってきた。
「転校生だ」
「転校生? へぇー! なんてーの?」
先程から教員がの名を連呼していたにもかかわらず、
あっさり知らぬものとして名前を聞かれ、はびくびくしながらです、と呟いた。
「ふーん……?」
小平太は不思議そうに首を傾げた。
「どっかで会ったかな?」
「え、いいえ……! 初対面です」
はかぶりをふるが、隣で長次がなにか言いたそうにわずかばかりを覗き込んだ。
小平太はまあいいやと話題を横へ置いた。
「私、七松小平太! 焼きそばパン食う?」
「あ、え、いえ……自分で買いに行きます」
「そ? でもたぶんもう購買カラだよ」
「ええー!」
「昼休みの購買をなんだと思ってる! 生きるか死ぬかなんだぞ」
「そんなあ」
情けない声を出したに、小平太はにかっと笑って見せた。
「この学校で生き抜いていこうと思うんなら、覚えといたほうがいいよ。
 昼休みは、戦国時代! 血で血を洗う戦いだッ!」
「小平太……大袈裟だ」
長次が静かに、もっともらしい突っ込みを入れた。
(でも、どうしよう……)
母の言うとおりにしっかりと朝食をとっておいたのは幸いだったが、これから放課後まではさすがにもたない。
目の前に飛び交っていた焼きそばパンはいやにおいしそうだった。
成りゆきをなんとなく見守っていた教員は、とりあえず今はこれでよしとしたらしい。
「じゃ、中在家、七松、頼んだからな」
言うとあっさり踵を返した。
小平太が元気よく、その背に手を振る。
「ハーイ。まかしといてー」
長次は返事をせずに頷いた。
教員が教室を出ていったのと入れ違いに、外からふたりの生徒が顔を覗かせた。
文次郎と仙蔵だった。
文次郎が有無を言わさぬ口調でずばりと告げた。
。昼休みのあいだ、生徒会室に付き合え」
「昼食はどうした? まだ済ませていないだろう?」
「あ、なんか買うつもりでいたんだけど……」
仙蔵の問うのに答えながら、はいきなり名前を呼び捨てた文次郎の言動に意識を奪われていた。
小平太もそれを聞き留めたらしく、目を輝かせて文次郎に向き直る。
「えーっ、文次郎、いまっつったー! 呼び捨てたー!」
「それがどうした。お前らだってそう呼んでいたろうが」
「なにそれ」
まったくもって心当たりがないと言いたげに小平太はけろりと答えた。
「長次はのことを覚えているか」
今度は仙蔵がそう聞く。
長次はうんと頷いて口を開いたが、その話題は別のほうへ向いていた。
「だがまずの昼飯を確保するのが先だ」
「、なにもねぇのかよ」
文次郎が今やっとそれに気付いたように聞いてくる。
なんとなく彼らの会話の進行についていけていないながら、はおずおず、頷いた。
「仕方ねぇな……C組に連絡するか」
文次郎はシャツの胸ポケットから携帯電話を取り出し、ぱちんと開くといくつかボタンを押して耳に押し当てた。
ややあって、吼える。
「……遅せーよ出るのが! おい、今どこにいる」
開口一番、悪態をついた。
状況がよくわからないままで文次郎の電話の様子に耳を傾けていると、傍らの仙蔵が声をひそめて教えてくれる。
「昼の休みは大体、C組の奴らが外のコンビニまで足を伸ばしている。購買は小平太の天下だからな」
「さっきC組の善法寺くんって人となら会ったけど」
「ああ、そいつと、食満留三郎のふたりだ。……お前、誰ひとりも覚えていないのか」
は躊躇いがちに、わからない、と頷いた。
仙蔵はふっと息をつく。
「まあいい。その話は後だ」
仙蔵はまた文次郎のほうへ視線を戻した。
なにやら電話は喧嘩腰に進んでいる。
「あ? うるせーよだから余分にいくつか買って来いっつってんだよ!
 つべこべ言わずに従えってんだこのバカタレが!」
携帯電話の内側から、電話の相手が負けじと言い返してきているのがかすかに聞こえる。
「だから俺じゃねぇ! B組の転校生だ」
転校生、と携帯電話が問い返したのは聞き取れた。
電話の向こう側には食満留三郎という人と伊作とがいて、なにやら会話を交わしているらしい。
伊作にはのことが思い当たったに違いない。
ふいに文次郎が顔を上げ、に問うた。
「おい、何がいい。聞いてる」
「えっ……」
文次郎はもどかしそうに、渋い赤色の携帯電話を突き出してきた。
「あ、え、も、もしもし……?」
『あー、もしもし……?』
「は、はい……」
『ついでに昼飯買ってくけど。なにがいい? なんかコレってものがあれば』
伊作の声ではなさそうだ、ということはやはり、まだ会ったことのない食満留三郎だろう。
彼は自分で名乗ることはきれいに忘れて、にそう聞いてきた。
「あの、……なんでもいいです」
『飲み物とかは?』
「えと、炭酸じゃなければなんでも。あっ、あとコーヒーも苦いのはだめで……」
言いかけたところで、伊作の声が何やら近くで話しかけてきているのが聞こえた。
留三郎の声がウンウンとそれを聞き、納得したようにそうだそうだと答える。
『いちごミルク?』
「えっ」
いきなりの声が弾んだので、電話の向こうで彼の声は笑った。
『変わんねーの』
どきり、と心臓が跳ねたのがわかる。
この人も、のことを知っている……らしい。
先程はそんな素振りを見せなかったが、どうやら留三郎に助言したらしい伊作も。
いったい何がどうなっているのか、の混乱は増すばかりだった。
『あー、紙パックのならあるわ。お前、飯時にコレで平気か?』
「あ、うん、平気……です」
『じゃ、適当に買ってく。すぐ戻るから、生徒会室で待っててくれな』
「あ、どうも……」
文次郎に携帯電話を返すと、彼は素っ気なく行くぞ、と言って歩き出した。
それに仙蔵と小平太が順に続き、
長次は突っ立ったままのを次はお前だと言いたそうに見下ろしてきたので、は慌てて教室を出た。
そうして生徒会室に辿り着くまでの数分間のあいだ、
はひりひりと大勢の視線を感じて縮こまらざるを得ない状況に陥った。
ジャージ姿のに加え、それを囲む四人の男子生徒の目立つことと言ったらなかった。
生徒会の役員ふたり(ひとりはラスボス=会長らしい)、
購買部の暴君、残るひとりは肩書きはないにせよ他と頭ひとつ半ほどは差のある長身。
これにあとから不運くんとまだ見ぬもうひとりが合流するという。
確かめなくても学校の名物集団に違いないことはわかってしまう。
(ああ……どうせなら、B組の女の子と早いうちに知り合いたかったのに……)
これだけの連中に囲まれてしまって、まるで連行されていく囚人のようだ。
しかも彼らは、さも当たり前のようにのことを名前で呼び捨てた。
女子生徒からの第一印象がよかったとは到底思えない。
(明日っからだって制服……)
まだしばらくは余所者として遠巻きに扱われても致し方なさそうだ。
はしょんぼりと、もう帰りたい、と思って肩を落とした。