ネバーランドの子どもたち 03
「晴れてりゃ屋上だったんだけどな」
文次郎は制服のズボンのポケットからキーリングを取り出した。
金属製の円盤型ビーズを五つ連ねたストラップが下がっており、
高校生が持つにはやや大人びすぎて見えるほどシンプルなデザインに思えた。
文次郎はそこに下がった鍵のひとつを差し込み、生徒会室の戸を開錠した。
どう見ても家の玄関や自転車用でしかない鍵と一緒に、
なぜ生徒会室の鍵が下がっているのかはわからない。
誰もが不思議とは思わないらしく、唖然としているを見返して怪訝そうな顔をする。
生徒会の役員の立場を乱用して生徒会室を私物化しているとしか思えなかったが、
新参のがそれらをどうこう言えるような空気ではとてもなかった。
やや狭めの教室の中央に長机がふたつ隣り合わせに据えられ、
周囲をパイプ椅子がぐるりと囲んでいた。
黒板には会議をしたらしい跡がありあり残っている。
めいめいに定位置があるのか、彼らは慣れた様子で椅子を引き、座り込んだ。
仙蔵が立ったままのに声をかけた。
「ああ、。適当に空いたところに座れ」
「たぶんもう十分もしねぇうちに奴ら、戻ってくる……」
話の続きを引き取ると文次郎は窓の外をチラと見やり、ほら、来たと呟いた。
言われて窓の外を見やると、ふたりの生徒が連れ立って校門を入ってきたところだった。
どちらも男子生徒であることくらいは判別がつくが、ふたりでひとつの傘に入っている。
「どこのバカップルだよ」
「めおとかよ」
容赦のない突っ込みが飛ぶ。
ひとりはコンビニでの買い物にしては随分膨らんだ袋を三つも持ち、
もうひとりは袋の代わりに傘を支えている。
どうやら傘を持っている方が、先程会った善法寺伊作ではないかと思われた。
では、袋を下げているのが食満留三郎か。
まだ対面していないはずのを、彼も知っているらしい。
小平太は曖昧そうだったが、他の五人は皆が皆、はっきりとを知っている。
水の染みが広がるように、じわ、と疑惑のような感情が胸に滲んだ。
朝、公園を見つけたときに感じた既視感にしてもそうだ。
(私、ここを知ってるの……?)
それにイエスと答える記憶は、の内にはない。
は落ち込んだふうで、やっとのろのろ、空いた椅子へかけた。
数分ほどすると、廊下に男子生徒二人の楽しげな話し声が聞こえて来、
やや濡れた姿の善法寺伊作と食満留三郎とが生徒会室へ入ってきた。
すでに三つ目の焼きそばパンにかじりついている小平太が、忙しそうに片手を上げる。
「おっかえりー!」
「ただいま! やー、ひどい雨だよ」
「転ばなかったか、伊作」
「もう、仙蔵はいつもそうやってさ」
伊作は拗ねたように言い、を見つけるとまたにっこりと笑った。
「C組じゃなかったんだね。残念」
「あ、うん、B組みたい……」
言いながらは、伊作の隣に立つ長身の男子生徒に視線を移した。
彼が食満留三郎だろう。
目つきは鋭くも見えるが、
まっすぐ視線が絡んでも文次郎と対したときのような恐さは感じなかった。
黒髪にまばらに水滴が浮いているのを見ると、大雨の中遣いをさせることになって悪かったと思う。
「ごめんね、天気悪かったのに……」
「ん? 別にいいよ。ついでだし。いつものこと」
留三郎は初対面とは思えない気さくさでそう答え、袋をがさがさやりながらのほうへ寄ってきた。
「こっから選んで。残ったのは伊作と俺の分な」
まずおにぎりがいくつも入った袋をそのままぽいと渡される。
バラエティに富んだその中身には一瞬目を疑った。
この数を、の分を差し引いたとしても、彼らふたりで食べるというのだろうか。
が呆気にとられているのに気づきもせず、留三郎は続けた。
「あ、パンがよかったらメロンパンと卵のサンドイッチがある。あとこれ」
別の袋から紙パックのいちごミルクとストローが取り出され、目の前に置かれる。
子どもの頃から甘くて可愛らしいいちご色のこの飲み物がは大好きだったが、
そんなことまで知っている彼らをなんとなくあやしんでしまうのは仕方のないことではないか。
いつかどこかで会ったことがあるのだろうか。
ここにいるほとんど全員と?
の嗜好まで把握されているというほど親密に?
考え込むほどわけがわからなくなってくる。
「……あ、あとこれ」
留三郎が言うのに、はやっと我にかえる。
彼は袋の底からうさぎのキャラクタを模したディスペンサー入りのキャンディを取り出し、
ヒョイとへ差し出した。
「やる。おかえり」
何でもないことのように留三郎はそう言って、ほら、との目の前でそれを振った。
彼の言わんとしていることの意味はわかる。
しかしは困惑して指一本も動かせなかった。
おかえり、と、言われてしまったのは、どういうことなのか。
「無駄だ、留三郎。は覚えていないんだ」
「は?」
仙蔵に横からそう言われ、留三郎は意外そうに目を見開いた。
「どういうことだよ」
「どうもなにも。私は知らんよ」
留三郎はしばらく仙蔵を見やったまま言葉もないようだったが、不意にを見下ろした。
「じゃあ、俺のこともわからないのかよ」
「え……け、食満留三郎くんって名前だけ……」
留三郎は納得がいかないというように眉根を寄せたが、やがて静かに呟いた。
「……なんで帰ってきたんだ」
「え……それは……」
は口ごもった。
両親が離婚して……
母について引っ越してきて……
本当は元の街にずっといたかったけど……
そんなことを答えられようはずもなかった。
がつらそうにうつむいたのを見、近くに座していた長次が無言で留三郎を止めた。
視線だけで伝わったらしく、留三郎は渋々といった様子で身を引いた。
気まずい沈黙が教室中に降りる。
いまだ勢いを失わない雨の音だけが、七人を囲むように響いていた。
やがて、ずっと黙っていた文次郎が口を開く。
「が俺達のことを覚えていないというのなら」
は顔を上げた。
文次郎はどこか厳しさの混じったような顔をしていた。
「……過去あったことのすべても一緒に忘れ去っていても不思議はない」
場の空気が、その言葉で一瞬にして様変わりしたのをは感じた。
「何年前だ……?」
「小学六年の頃だ」
「じゃ……五年か六年も前か? それくらいだ」
「夏祭りがあって……その帰りに」
「公園で」
ああ、と小平太が声をあげる。
「あのときの? ?」
「今更思い出したのかよ」
「だって、……私だって忘れたかったんだ」
小平太が、今日の見た中ではいちばん神妙そうな顔で口をつぐんだ。
(公園)
きれぎれ・彼らが口に上らせた言葉のひとつにはどきりとする。
今朝行き着いた児童公園を思い出す。
はぶるりと震えた。
一同はそれに気づき、話すのをやめる。
は青白い顔をして目をいっぱいに見開き、頭の中に押し寄せる不安と焦燥と戦っていた。
(私……なんか忘れてる……?)
こめかみに手を当てる。
思ってもないほど指先が冷たくなっていた。
(なにを……?)
かばうように長次が口を開いた。
「わざわざ怯えさせることはない」
「……中在家くん」
呼ばれて長次はわずかにのほうへ視線を向けたが、変わらぬ口調で続けた。
「……忘れたなら、それはそれで……いいのかもしれない」
愉快な記憶ではないはずだと、長次は言った。
「それは……そうかもしれないけど」
伊作が少し不満そうな色を声に滲ませ、続けた。
「……寂しいじゃないか。
僕だって、最初に保健室で会ったときはすぐにわかったのに……
は全然、初対面みたいに接してきたから」
言って伊作は、わずかに視線を背けてしまう。
はすまなさそうにうつむいた。
しかし、わからないものはわからない。
彼らに問われること、忘れているらしいさまざまな記憶について、
思い返せないことに対する苛立ちや焦りはある。
しかしそれよりもずっとつらく思われるのは、
懐かしい友人としてを扱ってくれようとする彼らに、満足に応えてやれないことだった。
また会えて嬉しいと、心から言えるのならどんなによかったか。
不安なことばかり、思い出したくないようなつらいことばかり。
できることなら、楽しいことばかりだった昔へ戻りたい。
彼らがそばにいなければ、は泣き出してしまっていただろう。
傍らに立ったままだった留三郎が、
手の中でキャンディのディスペンサーをからんと振った。
「……忘れたままじゃ、危険かもしれない」
の目の前に、そっとそれを置く。
もも色をしたうさぎのキャラクタが、
場の空気にそぐわないほど愛らしい笑みをへ向けていた。
「……奴がまた出始めたって聞いてる」
一同がハッとして顔を上げた。
「……どういうことだ」
「一週間くらい前に、西高の奴がいなくなった。
塾の帰りとかで夜遅かったらしいけど、そのまま家に帰ってないそうだ」
しん、と室内が静まり返る。
(失踪……?)
思ったが口を挟むことはできず、は沈黙に耐えながら話題が転がり出すのを待った。
「……昔と同じなのか」
「たぶん……噂が広がってるからな」
「ちょっとそれ……まずいよ! なんでこのタイミングなのさ!
は戻って来てるし……!」
伊作がやや取り乱したように言った。
話は途切れ途切れ、核心をつかめずにはただ不安ばかりをつのらせた。
の様子を気にかけたのか、スパリと言ったのは小平太だった。
「に説明しといたほうがいいよ」
「小平太……それは、」
「長次の言うのもわかるけど、知らないで恐いよりいいだろうし……
もう次が始まってるんだったら、そのうち嫌でも聞くことになるよ。
昔のを知ってるのはなにも私らだけじゃないんだ。
……やなこと言う奴らもいるかもしれない」
長次は反論せずに押し黙った。
文次郎と仙蔵とは長いことのまわりのやりとりを見ていたが、
その表情には決意のようなものが見て取れた。
仙蔵が静かに問う。
「……留三郎。どんな噂だ」
「同じだよ。昔と同じ。……“ネバーランドの子どもたち”」
「ネバーランド……?」
か細い声でが問うた。
長次が話の先を引き取る。
「都市伝説のようなものだ……
口々にいくつものパターンが語られるが、大筋は同じで……
夜の道を歩いていると、他に誰もいないはずなのに声が聞こえてくる。
その声の問いかけに正しく答えないと、」
連れ去られて戻ってくることができなくなる、と長次は言うと静かに口を閉ざした。
「な、なに……それ」
震え声でが聞くと、今度は文次郎が話を継いだ。
「昔……俺達が小学六年のガキだった頃、この街で同じような事件が起こっていた。
子どもが次々姿をくらますって事件で、神隠しと言っていっとき随分騒がれた。
具体的な痕跡も手がかりも何も残っちゃいなかった……
あったのは声の問いかけに正しく答え・この世に生き残ることができた子どもたちの証言だけだ」
は思わず息を呑んだ。
文次郎は更に続ける。
「子どものたわごとと言って、本気にする大人は当時もそんなにいなかった。
けど、証言の細部が全部共通していたことで、信憑性があると認めた奴もいた。
証言内容から、その事件はかげで“ネバーランドの子どもたち”と呼ばれている」
「……ピーターパンの?」
隣で長次が頷いた。
「……この事件に特有と思われる特徴が、
ジェームス・マシュー・バリの『ピーターパン』の小説の要素を含んでいるためだ」
文次郎はそれに頷き返し、そして言った。
「声はこう聞いてくる──『君は妖精を信じるかい?』……ってな」
過去起きた事件の話をわずかに聞いたところで、予鈴が鳴ってしまった。
ろくに昼食のすすまなかっただが、そのときには食欲のほうが失せてしまっていた。
心配する伊作と留三郎とになかば無理矢理おにぎりとサンドイッチとを持たされ、
一同は生徒会室を出て扉を施錠し、教室へ向かって急ぎ足で廊下を歩き始めた。
皆の背を追いながら、いま聞かされたばかりの話について考えを巡らせてみる。
子どもの失踪事件。
それも、短期間のうちに何人もの子どもが姿を消し、
数年が経った今になっても行方不明のままという例もあるそうだ。
彼らの口振りから察するに、が脳裏に留めているべき過去の記憶とは、
彼ら六人とその失踪事件とに共通して関わるものであるらしい。
ときは小学校の六年生だった頃、季節は夏。
祭で遊んで帰ってきた夜、公園で起きたなんらかのできごと。
児童公園の前でフラッシュバックしたきれぎれの光景がまたふいに甦ってくる。
今の自分の目線よりもかなり低いその視界は、走り回ってがくがくと揺れていた。
耳元には自分の荒い呼吸の音。
これまでにないような楽しさとわくわくと、わずかばかりの罪悪感のため、
心臓はどきどきと激しく脈打っていた。
先にジャングルジムの天辺を制した誰かが早く来いよと手を差し伸べてくる。
早い者勝ちで乗ったブランコを、数にあぶれた誰かが空に届けとばかりに押してくれた。
この景色は夜ではないかとは思う。
祭の宵であるためか、
いつもならベッドに入らなくては怒られてしまうような時間なのに、
大人たちも仕方ないなと言いたげに見逃してくれる。
わずかばかり悪いことをしているような後ろめたい気持ちが、しかしなんとも快感でもあった。
夜の公園には誰もいなくて、笑って、笑って、笑って。
ずっとこうして、みんなで、遊んでいたい。
夜なんて明けなくてもいい。
いつまでも明日なんて来なくてもいい。
隙ひとつなかった遊びのあいだに、それは唐突に割って入ってきた。
──それなら、ずーっとこのまま遊んでいようか。
は、声のしたほうに振り返り、……
「! おい、……」
誰かの叫んだ声が遠く聞こえた。
視界がぐらりと反転し、すべてが真っ白な光の中に飲み込まれた。
意識の遠のいていく刹那に見えたのは、
必死の形相でに駆け寄る六人の顔。
(……覚えてる)
最後には、おぼろげな記憶をひとつ、己の内に探り当てていた。
いまのこの状況のように、を囲んで皆が必死で言い交わしている光景。
その顔は今よりも数年ほども幼い。
無事でよかったと誰かが言い、誰かが頷き、安堵のあまり目に涙を浮かべた。
(あれは、いつ……?)
しかしそれ以上のことは思い出せそうになかった。
倒れ込んだ身体を誰かが支えてくれるのを感じながら、
の意識はやわらかく混濁し、そのまま暗転していった。
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