ネバーランドの子どもたち 04

ふっと、薄暗い中に目を覚ました。
しばしぼんやりとして、そこが先程着替えに訪れた保健室のベッドの上と知る。
窓はカーテンが閉めきられていたが、わずかな隙間からまだ雨が降っているのが見えた。
ベッドの周囲もカーテンに仕切られ、保健室内の照明のあかりもわずかに届くくらいで、
の視界はぼんやりと薄暗い霧の降りたように滞っていた。
さあああ、と静かな雨の音が響き続けている。
そのくぐもった音に時折混じるように、人のぼそぼそと話す声が聞こえた。
はやっとしっかりと覚醒してきた意識を、その声のほうへと向けた。
「……、に確かめもせずにあんな話を続けてしまったせいで」
「しかし本当になにも覚えていない様子だったな……」
「寝っ放しだけど、大丈夫かなあ……女はいろいろ大変だっていうしなあ」
最後の声が小平太だということはにもすぐわかった。
いろいろ大変、の詳細など言っている本人の念頭にはほとんどないだろうと思いながらも、
同い年の男の子の口から出た言葉と思うと少しヒヤリとするような、少し恥ずかしく思われるような、
内心は複雑であった。
カーテンの向こうに揺らめくかげが何人のものであるのかは定かでないが、奥のほうで新野と伊作がなにか話しているらしい声もかすか、聞こえる。
すべての声と音を唐突に遮って、鳴ったチャイムはの耳にびりびりとするほど大きく響いて聞こえた。
「ああ、下校時間ですよ。みなさん、帰る支度をしてください。さんの様子はどうでしょうねえ」
新野はそう言うと立ち上がり、のベッドのほうへ歩いてくる。
カーテンの隙間から覗いてきたのと目が合うと、は身を起こしてぺこりと頭を下げた。
「おや……、お目覚めでしたか。具合はいかがです」
新野が優しく笑いかけてくれたのを見ると、の気持ちもほっと落ち着いた。
の様子を認めて、新野はうんと頷いた。
「急に倒れたそうですね。貧血でしょうか? 引越しの疲れもあったかもしれませんね」
カーテンの向こうからの様子をうかがおうとしていた一同がぞろぞろと新野のあとにつこうとしたが、
彼はその目前で容赦なくぴしゃりとカーテンを閉めた。
ベッドの脇へやってくると、声を一段ひそめる。
「最近の体調はいかがでしたか。月経中などなら、不安定にもなりやすいですからね」
はふるふると首を横に振った。
「このあたりは今週に入ってから急に暑くなったんですよ。
 それが悪かったのかもしれませんし……さっきは雨にも濡れましたしね」
「なんにも心当たり、ないです……」
それは本当にその通りだった。
新野は頷いて続けた。
「熱と脈だけはからせていただきましたよ、異常は見られませんでしたが。
 強いて言うなら……少し脈が速かったでしょうか」
言って新野は何か思い出したように笑う。
「驚きましたよ……六人全員大わらわで保健室に駆け込んで来ましてね。
 善法寺くんが応急処置をしてくれて、中在家くんがあなたをおぶってきてくれたのですが」
そのときの状況があまり容易に想像がついて、は赤くなって肩をすくめた。
「他のみなさんはなにをしたかと言えば、先生助けて、いきなりぶっ倒れた、救急車を呼んだほうがいいか……
 全員で違うことを口々に言うもので、収拾がつかなくて」
は引きつった笑みを浮かべた。
意識を飛ばしているあいだにそんな喜劇のようなことになっていようとは。
新野は手を伸ばし、の頭を撫でながら続けた。
「さいわい、六人もいてくれたおかげで、倒れたときに頭を打つなんてことにはならないで済んだようです。
 階段の踊り場だと聞きましたからね、下手をすれば落ちていたかもしれません」
痛いところがないかと聞かれ、大丈夫だと答える。
気を失ってそのまま、随分深く眠り込んだらしい。
肩のあたりにはまだ眠りの余韻が気怠く取りまいているようであったが、
頭の中は寝足りたおかげで落ち着いてすっきりとして感じられる。
はほっと息をついた。
「ご迷惑おかけしました……もう放課後なんですか」
「ええ、先程下校のチャイムが鳴りました。結局授業には出られなかったようですね」
「あー……」
はがっくりと項垂れた。
新野はにっこりと笑いながら、ベッドの周囲のカーテンを引いた。
急にあかりが入ってきて、は一瞬目を細める。
先程昼食をともにした六人が全員そこにいて、心配そうにのほうを見ていた。
! よかったあー、もー脅かすなよなー!」
小平太がまず、いのいちばんに安堵の声をあげた。留三郎が続く。
「大丈夫か、もしかして飯入らなかったのも気分悪かったせいか?」
「え……ううん、全然そういうんじゃないんだけど」
そういえばおなかがすいたような、とは思った。
結局のところ、朝食以降ろくに食べ物を口にしていないことになる。
一同の心配ぶりがあまり大袈裟で、はやや調子を崩された感であった。
彼らの奥で委員会の仕事だろうか、はさみで紙を切りながら伊作が口を挟んだ。
「もう放課後だけど、立てる、歩ける? 家の人に連絡しようか」
ははっと顔を上げた。
「だ、大丈夫、ダメ」
焦るあまりか、真逆のことを口走る。
不可思議そうな視線を一身に受け、はしどろもどろになりながら続けた。
「あ、あの……引っ越ししたばかりだし、おかーさんもいろいろ、忙しい……から」
できるだけ、自分のことで母を煩わせたくはなかった。
雨の中、慣れない街の中を迎えに来てもらうというそのことばかりではなく、ただ心配をかけたくなかった。
今はもうお互いしか家族がいないのだからと思うと尚のことそうだ。
「大丈夫、たぶん……道もわかると思うし、よく眠れたからすっきりしてるし」
「……だが、じきに暗くなる」
手元で閉じたままの文庫本を読むでもなく遊ばせながら、長次が呟いた。
「ひとりで歩かせるのは危険だ」
夜道の一人歩きは危ない、という意味ばかりではなさそうだということに、
は一瞬間をおいてから気がついた。
皆が神妙そうに口をつぐんでいる。
急に深刻そうな雰囲気を帯びた皆を新野は不思議そうに見渡していたが、
やがて気を取り直したというように頷いた。
「さあ、では帰る支度をしましょう。
 さん、預かっていた制服をお返ししますよ。今朝はずぶ濡れでしたが、傘はお持ちですか?」
「あ、はい、あります。今朝は……」
深く考えずに説明しようとしたその言葉は仙蔵に遮られた。
「朝に校門で会ったときに、文次郎がを脅かしたんですよ。可哀相に、はそれで傘を取り落として」
仙蔵は言いながら目の下を指して見せたので、
その意味するところを察して一同にちいさな笑いがもれる。
文次郎は不機嫌そうに顔を背けただけで、なにも言おうとしなかった。
はベッドから降り、しわの寄ったシーツを伸ばして布団をととのえた。
ぬくもりの内にあった足が急に冷えて肌が粟立つ。
「へぇ、これ前の学校の制服?」
伊作が感心したように言った。
振り返ると、見たところまだ半乾きのブレザーが注目を集めているらしかった。
きちんとたたんで置いてあるそれの校章に伊作はそっと触れる。
「ブレザーかあ、なんだか制服じゃないみたいにかわいいね、これ」
「うん、なんか、制服が人気の学校って、地元では有名だったの。一応デザイナーズなんだって」
「わぁ高そう」
伊作は楽しそうにそう言って、校章をつついていた指をぱっと離した。
「そういえば、こちらの制服は間に合わなかったのか」
朝にブレザー姿のを見ている仙蔵は、今そのことに気がついたというように問うた。
はややぎこちなく、うん、急だったからと答える。
素っ気ない答えに仙蔵は訝しげに目を細めたが、それ以上聞いてくることはなかった。
は少しばかりほっとして、ちいさく息をつく。
恥じているでもないつもりだったが、あまり家庭の事情を人の耳に入れたいとは思えなかった。
ふと目を上げると、じっとの様子をうかがっていたらしい文次郎と視線がまっすぐぶち当たった。
文次郎の目はやはり厳しくまっすぐ突き刺さってくる印象であったが、
今朝のように恐いとか睨まれたとかとは思わなかった。
なにかもの言いたげに、問い返すように見つめられているような気がした。
わずかな仕草からもなにかを感付かれたような心地がして、はわざとらしく文次郎から目をそらしてしまう。
帰りのホームルームを終えた際にの荷物も保健室へ運び込まれていたらしく、
いかにも男子生徒のもの、といった風情の荷物にまぎれて見慣れたかばんが置いてある。
これも前に通っていた学校の指定かばんで、校章の刻印されたプレートがはめ込まれている。
傍らには昼にもらったままのおにぎりとサンドイッチの袋があり、
中にはうさぎのマスコットのついたキャンディ・ディスペンサーもちゃんとあった。
は唐突に、あ! と声をあげた。
「お昼代、渡してない!」
「あ? ああ、そういえば」
言われて初めて思い当たったというふうに、留三郎が顔を上げた。
は慌ててかばんに駆け寄ると中をごそごそとやり始め、先日買ったばかりの気に入りの長財布を取り出した。
臙脂色の革に蝶のモチーフのプレートがついたそれは、
自分の持ち物の中でも群を抜いて大人っぽい気がして、人前で持って使うのはまだ少しむず痒い気もする。
母から握らされた千円札を抜き出すと、ハイ、ありがとう、と留三郎に突き出した。
「あれ、いくらだっけ、伊作」
「忘れたあ。留、レシート置いてきちゃったでしょ」
「だってなあ……財布ン中たまってくだけなんだよな……」
留三郎は差し出された千円札との顔とを交互に見るばかりで、一向にそれを受け取ろうとしない。
「いいよ、結構こまごましてもらったし! うさぎのおまけももらったし」
「や、でも……」
「……じゃあ、またときどき、頼まれてよ。いちごミルク」
ね、と改めて千円札を差し出すと、彼はそれでもまだ少し躊躇った。
はだめ押しとばかり付け加えた。
「レモンティーも好きなの。ハイ・ティーのレモンがいいな。これは紙パックは苦手」
留三郎は苦笑した。
「こだわりがあるんだ」
は笑い返して頷いた。
留三郎はそれでやっとわかったと言って千円札を受け取った。
「……。家はどっちだ」
椅子から立ち上がり、手元で開いていた教科書をかばんにしまい込みながら文次郎が問うた。
が目を覚ましてから今まで、文次郎が口を開いたのは初めてだった。
先程視線が絡んだときのなにか言いたげな様子もの気にかかった。
内心どぎまぎとしながらも、は帰り道を思い返そうと記憶の中の地図に意識を飛ばす。
仙蔵が横から更に問う。
「今朝は駅のほうから来たな?」
「今朝は道に迷ったの……」
駅は利用しておらず、本当は歩いてこられるところに家があると言うと、
仙蔵は答えるかわりに呆れたような笑みを浮かべた。
伊作に住所は、と問われ、南区茜町三番地というフレーズを辛うじて思い出す。
「全然駅のほうじゃないよ、それ……」
「住宅街だな。来る途中に川なかったか? 天野川っての」
相槌を打つように留三郎も問うが、
「うーん……よく覚えてない……」
は困って首を傾げた。聞いて一同はきょとんとしてしまう。
「ほんとーっに、なぁんにも覚えてないんだなあ、
もはや感心の域といった様子の小平太は、そう言うなりハアと息をついた。
「記憶喪失ってやつ?」
「え……」
そう言われてもにはそもそもの意味すらわからない。
初めてやってきた土地で初めて会った人たち、という印象にはなにも変わりがないのだ。
長次がぼそりと、小平太だって最初は覚えていなかった、と地味な突っ込みを入れた。
小平太はあはは、と軽く笑い飛ばす。
「引っ越してきたってゆーから、てっきりあの古い家かと思ったけど違うんだな。
 んち、あっちの……あのへんだったもんな?」
そう言われ、窓の外を示されるが、は目を白黒とさせるばかりであった。
街の地理がわからないというのもそのとおりだったが、
小平太の言葉のすべてがには寝耳に水といって過言でないほど知らぬことばかりであった。
あのあたりは東雲町だと、長次が静かに補足する。
が混乱し始めているのを、じっと見つめるに徹していた文次郎が真っ先に悟った。
「……
呼ばれてはびくりと小さく跳ねる。
「また身体の加減が悪くなっても困る。話はまた、おいおいだ」
「そうだな……暗くなる前に出たほうがいい」
文次郎と仙蔵はそう言ってさっさと帰り支度を整えた。
もそれに倣ったが、財布をかばんにしまい込もうとする手の震えを見つけるとぎゅっと唇を噛んだ。
まぎれもなく自分のことであるらしいのに、自分のなにも知らないところにある過去。
ひたすら心許なくて、早く家に、母のところに帰り着きたいと願った。
「会って初日で随分仲良くなったんですねえ」
新野は不思議そうにそう言った。伊作がそれに答える。
「幼なじみなんですよ、先生。彼女、昔はこのあたりに住んでいたんです。
 よく一緒に遊んで、仲良かったんですから」
「おや、そうですか。それは不思議な縁ですねえ。君たち六人が幼なじみというのは有名な話ですが」
わんぱくを六人も抱えて、と新野は苦笑した。
「でもそれなら安心ですね。昔いた街で知り合いともすぐ会えたのなら」
白雪姫とこびとたちのようですねえ、ひとり足りませんがと、新野は意味ありげに笑った。
に対してあんまり過保護な六人をからかったのだろう。
赤くなったり苦笑したり、はたまた眉ひとつも動かさなかったり、六人は六様の反応を示した。
世話になったことの礼を言い、はこびとというには随分背の高い六人に囲まれて保健室をあとにした。
雨の湿気に満ち満ちた生徒玄関で、伊作がおもむろに決をとった。
「茜町のほうの人ー!」
全員が手を上げる。
「ええ、嘘だ、仙蔵も長次もいつも逆方向のくせに!」
伊作の抗議をまあまあと流し、仙蔵は文次郎に目を向けた。
「塾はサボリか、文次郎」
「……それどころじゃねぇだろ」
「まあそうだ」
仙蔵はさらりと言って頷いた。
「めっずらしー、もんじ。テスト前はいっつもきりきりしてるのにさ」
小平太が軽口を叩いたのを、文次郎はぎろりと睨み付けた。
「おお、こわ! 怒るなよー」
「文次郎はすごいんだよ。定期テスト学年トップの常連なんだ」
いきなり機嫌を損ねた文次郎をなだめるようなことを伊作が言うが、文次郎は聞くと地に響くような低い声で唸った。
「 ト ッ プ じ ゃ ね ぇ よ ……!」
「総合成績ではだいたい一位だろうが」
「うっせえ!」
文次郎はいきなり、下駄箱の側面に思いきり頭をぶつけた。
予想だにしなかった文次郎の奇行に、は思わずびくっと肩を跳ね上げる。
「テメ、ものに八つ当たるのやめろっつってんだろうが! もろもろ誰が管理してると思ってやがる!」
いったい何事かと目をぱちぱちさせているをよそに、留三郎はまったく違う観点から突っ込んだ。
留三郎の委員会の仕事なんだよと、伊作が耳打ちして教えてくれる。
そのまま言い合いに突入する文次郎と留三郎とを呆気にとられて見ていると、ぽんと気遣うように肩を叩かれた。
長次が頭ひとつ分ほど高い位置から『わかっている』と言いたげな視線を寄越し、うんと頷いた。
「……いつもこうなの」
問うと、長次はまた静かに頷いた。
「埒が明かない。今後もきっとよくある。あまり気にしないことだ」
「そうそう、拘らわるだけ時間の無駄だ。さっさと出るぞ、もう日が落ちる」
言って仙蔵がさっさと玄関を出、ぱっと傘を開いた。
小平太と伊作もそれに続き、長次がまたを先に通そうとしてくれたので、
は文次郎と留三郎を一応気にかけつつ玄関を出た。
空には厚い雲が垂れ込めて、数日ほどは雨続きなのではと思わせる。
梅雨もそろそろあける頃なのにと思うが、恨んでも致し方のないことだ。
雨女ねえと母に言われたのを思い出し、打ち消すようにぶんぶんと首を横に振る。
伊作が寒いかと聞いてきたのに、大丈夫と笑い返した。
けんかの片が付いたのか、文次郎と留三郎がよろよろと出てきた。
振り返るのが恐かったが、肩越しにチラと目をやると、ふたりとも軽く暴れたあとといったさまで髪や襟元が乱れている。
「チ、貴様がいちいち絡んでくるから見ろ、もうこんな暗くなっちまったじゃねぇか」
「お前には言われたくねぇよ、毎度毎度手ェ焼かせやがって進歩ねぇなくそ!」
掴みかかる様子はなく、ふたりとも各々の傘を開いたが、口ではまだ悪態を突きつけあっている。
はふと、伊作と留三郎がそれぞれちゃんと自分の傘を持っていることに気がついた。
つまり昼休みに外へ出たとき、ふたりはわざわざひとつの傘に入っていたということになる。
奇妙な仲の良さを目の当たりにして、は脳裏にハテナマークをめいっぱい飛ばした。
文次郎と留三郎は飽きず言い争いを繰り広げている。
に呆れられている」
長次が静かに言うと、ふたりはやっとハッとして口をつぐみ、ばつの悪そうな顔で黙り込んだ。
「もんじも留も昔っからには弱かったよな」
小平太がにや、と笑った。
が怒るか泣くかすると、ふたりともすぐやめんの、けんか」
「懐かしい光景だったぞ、今の」
「うん、小学生の頃に戻ったかんじ」
仙蔵と伊作も苦笑いである。
場に和やかな空気が流れたが、はやはりひとりで置いていかれたような心地であった。
彼らの話すどの光景も、の脳裏には浮かばない。
すっかり受け入れられ、懐かしい幼なじみのひとりとして扱われているのに、
はどの言葉ひとつも懐かしむことができずにいる。
楽しそうな彼らのあいだの空気を壊してしまうような真似もできなくて、は黙ったままで目を伏せた。
しかしそれに、皆が皆気がついてしまったようだった。
笑いあっていたのがかき消え、やや気まずい空気が残る。
雨の降りしきる中、肌にまとわりつくような湿気とともに、その場はこのうえなく居たたまれない状況に違いなかった。
「……私、全然わかんないみたい」
はぽつりと呟いた。
「初日からこんな友達ができて、安心したけど。
 ほんとにここには初めて来たし……みんな初対面、だと思うし……」
まるで言葉までが湿気を吸って重くなっていくように感じられた。
自分の言う一言ひとことが、彼らを少しずつ傷つけていることが手に取るようにわかる。
それでもそれがの事実なのだ。
ごめんねとちいさく呟いたのに、誰も答えてはくれなかった。
あたりはもうほとんど夜と言えるほどに近い。
それなのに遠い遠い空の彼方はすうっと掃いたようにオレンジ色をにじませている。
ただただ妙に寂しかった。
寂しい、では違うかもしれないと思う。
こういう気持ちを、切ないと呼ぶのかもしれない。
「今日はもう遅い。その話もすべて……また後日だ」
文次郎がちいさく呟いた。
「お前の記憶と、俺達の記憶では、どうやら食い違うようだ。
 どっちが正しいかはこの際は構わん。でも俺達の知るはきっと、お前で間違いないはずだ」
「今度、最初から聞かせて。私も話すから」
「今度な。とりあえずはだ。……お前が倒れたのは、あの話をしたせいだと、俺は思った」
これ以上は今日は話したくないと、文次郎は言って口を閉ざした。
は思わず息を呑む。
「みんなの言う、昔の私のことって……その、事件も関係してるの?」
口にした途端、は聞かなければよかったと思わされた。
六人が六人とも、一様に表情をかたくした。
彼らのあいだで、この話題は禁句に等しいものなのかもしれなかった。
親しい仲に区別されることなく交えてもらえても、には彼らにとって喜ばしくないことを察することはまだできない。
答えなくていいと言おうとしたとき、長次がまた静かに、の肩をぽんと叩いた。
「あまり愉快な話ではない……だから、こちらにも話す覚悟がいる」
「そんなに恐い話?」
「おそらく」
「それが……、失踪事件が、また、今も起きてるの?」
留三郎が代わって答える。
「……噂だ。でも、きっと昔の事件を繰り返している……ような状態だと思う」
「いい、やめだ。いたずらにを恐がらせたいとは私も思わない」
無理矢理に仙蔵が遮り、場にまた沈黙が降りた。
文次郎がさっさと雨の中に踏みだした。
「帰るぞ。茜町だな。周りに六人もいれば、たとえ誰かが取られてもは守れるだろう」
「不吉なこと言うなよなー」
小平太が口をとがらせつつ、そのあとに続いた。
やっとちらほらと、皆の足が動く。
「白雪姫を守るヒーローだぞ、役得だな伊作」
「なんで僕なの!?」
「お前だろう」
「ひどい! いくらなんでもひどいよ仙蔵!」
一同はまたからからと笑った。
大雨の中に七つの傘が並ぶ。
皆割り切ったのか、気を遣ったのか、会話が先程の話題に戻っていくことはなく、一同には笑いが絶えなかった。
「笑うと恐いのが逃げるってトトロのおとーさんが言ってたよな」
「トトロのではなくてさつきとメイのお父さんだ……」
小平太の明るい間違いを長次が冷ややかに訂正し、また笑いがあふれる。
「あ、そうだ! ね、、携帯の番号教えて、アドレスも」
伊作がうきうきと携帯電話を取り出したので、もそれに倣ってビーズを連ねたストラップを引っぱり出した。
赤外線通信のやり方がどうもわからないままだったので、手でアドレスを打ち込む。
「あー、いさっくんいいなあ、私もー」
「全員に回せ、伊作、なによりの手間だ」
「えー、自分で聞けよー」
伊作はしゅんとしてみせるが、どこか楽しそうだった。
「なにかあったら、誰かに連絡して」
彼は明るくそう言ったが、なにかあったら、という一語に少し恐い意味も含まれる気がして、
頷き返すのにはうまく笑うことができなかった。
結局伊作から全員にの携帯電話の番号とメールアドレスとが回されることになり、
は全員からの返信をあとで受け取るように言われる。
無事にアパートへ帰り着き、自宅の窓にあかりがともっているのを見つけると、
はほっとして肩から少し力が抜けるのを感じた。
朝も迎えに来ようかとからかうように言われるが、は断固としてそれを拒否する。
「もう道覚えたから!」
「本当か? 明日の朝もあんなぎりぎりの時間に登校したらただでは済まさんぞ。我々の仕事を増やしてくれるなよ」
仙蔵が楽しそうにプレッシャーをかけてくるのに、はぐっと一瞬言葉に詰まる。
「い、いじめっ子だったでしょ……!」
「人聞きの悪いことを」
余裕そうに仙蔵は口元で笑ったが、
長次がまたぼそりと「仙蔵のは好きな子いじめというやつだ」と横で呟いたのを聞くなり
そのきれいな笑みが見事に引きつった。
「いじめとまではいかない……でもからかって困らせるのが好きだ」
「な・なにを言い出す、長次……」
「打ち解けると途端に甘やかすようになる」
「長次・頼むから・やめてくれ」
しどろもどろになる仙蔵の横で、聞いていた四人ともが笑いを堪えようと肩を震わせている。
さっさと帰るぞと皆を急き立てるさまも仙蔵にあっては珍しいことのようで、とうとう誰も声をあげて笑い出した。
もつられて笑いながら、また明日ねと手を振って見送る。
皆が歩き出した中、文次郎だけが迷うように留まった。
なにか言いたそうにしている彼に、はどうしたのと問うように首を傾げた。
「……夜中でもいいぞ」
「え?」
「だいたい起きてる。なにかあれば」
電話でも、メールでも。
は少し驚いて目を丸くした。
文次郎はいたって真面目にそう言ったようだった。
その目の下には、朝にを驚かせた隈が染みついている。
テストでもトップクラスの成績を保っているというし、塾にも通っているらしい。
夜中遅くまでも教科書に向かっているだろうことは想像できた。
思い当たると、はちいさく笑った。
「……寝たほうがいいよ?」
その笑みとセリフとに不意打ちでも食らったように文次郎はゆっくりと瞬いたが、やがて答えずにじゃあなと背を向けた。
遠ざかっていく六つの傘が日の落ちて薄暗い街に飲まれて見えなくなるまで、は立ち尽くして彼らを見送り続けた。



家へ入ると、朝よりはかなり片付いたキッチンで、母は夕食の支度にかかっていた。
ふわんといい匂いが漂ってくる、察するに、の好きなシチューだ。
「おかえり! なに、その格好」
「ただいま……朝、ずぶ濡れになっちゃって」
「なにやってんの」
母は苦笑した。
「先にお風呂入る? お湯張ってあるよ」
「ほんと? そうしようかな……」
耐えずかき回されている鍋の中を覗き込むと、
クリーム色の波間に星形に抜かれたにんじんがぷかぷか浮き沈みしている。
「お星様……子どもじゃないんだから」
「なぁに、子どもよ、いつまでも」
母はにこにこしながら空いた手での頭をぐるぐると撫でた。
なんだか上機嫌だなと思うと、も口元がゆるんでしまう。
目を上げた先の棚に、今朝は見つからなかったというのピンク色のマグカップが置いてあった。
その隣には母が長いこと愛用している白い磁器のカップが並び、
どの食器もどの食器も、皆ふたつずつ揃えられて置かれている。
もとあった家族のかたちから、ひとりいなくなった今の家族。
もうなにを言っても、間に合う距離に掴み取れるものはきっとない。
思うと胸が苦しくなることはしばらく続きそうだったが、受け入れるしかないのだとは静かに覚悟した。
しんみりとしてしまったの意識を、いきなり鳴りだした携帯電話の着信音が醒まさせる。
表示は知らないアドレスだったが、メールを開くと小平太かららしいことがわかる。
アドレスを回されてすぐにメールを送信してきたらしい。
口の大きなパペットが「いけいけどんどーん」とぱくぱく走り回るという添付画像までついていて、
は思わず笑いを漏らす。
たて続けにもう一通、伊作からもメールが届いた。
丁寧な文体で今日のこと、明日のことが打ち込まれていて、
男の子のメールにしては珍しく本文が長めだなあと思うとはまた少し笑ってしまう。
ふたりのアドレスと番号をアドレス帳に登録し、は返信を打ち始めた。
。もうごはんできるよ、お風呂あとにするなら食器出して」
「ん」
今日はありがとう、登録したよと返信を送り、はその画面を見つめたままでふと考え込んだ。
今日あったさまざまなできごとを、母に話せばなにかわかるだろうか。
「ねえ、お母さん……」
「んー?」
「あのね、……」
口を開こうとしたとき、の勢いを掻き乱すように、
今まで気にもとめていなかったテレビの音が唐突にの聴覚を奪っていった。
『一昨日夜十時半頃、美空市北区・日の出町に住む十七歳の男子高校生の行方が……』
静かな動揺がの頭の中に迫り来た。耳の内で気味悪く、ニュースキャスターの声がこだましている。
「あら……市内じゃない」
母もニュースに注目した。
「日の出町ってどのあたり……?」
「んーとね、市の端っこよ、このあたりとは反対端だから近くはないけど」
事件じゃないといいけどねと言って、母は食事の支度に戻っていった。
報じられるニュースが次へ移っても、はテレビに釘付けになったままだった。
画面の左上のデジタル表示時計が十九時を知らせた。



      *
*(画像あり)