ネバーランドの子どもたち 08

三年生の教室はどこもまだ昼休みの自由を束の間・謳歌する生徒で賑やかしい。
国公立大学志望者が集まるというA組の教室などにはそれでも、
予習を始めている生徒や次の授業の準備に取り掛かろうという生徒の姿がちらほらと見える。
の所属するB組はA組ほどの緊張感はなく平和で、目的のC組は更に奔放な様子で騒々しかった。
「C組は相変わらずのんきでいいな、羨ましい」
「けんか売ってんのか仙蔵……」
「素直な感慨を述べたまでだ。それに、事実には違いあるまい?」
「留ちゃん、仙ちゃんは『羨ましい』って言ったんだよ」
「いや、そこは嫌味だ。
 というか、……お前は昔どおりに私のことも留三郎のこともちゃん付けで呼ぶのだな……」
「あれ、本当だ? いつのまにか」
指摘されて初めて気がついた。
さきほどは長次を苗字で呼んで訂正されたが、
いまこのほどは何の不思議もなく勝手に留ちゃん、仙ちゃんと呼んでしまった。
「思い出す事柄にも時間差のようなものがあるのかもな……」
「つーか、ちゃん付けは俺嫌だ」
「……じゃあ留くん」
留三郎は数秒考え込んだのち渋々頷いた。
「……譲歩する」
「頑張って慣れる。なに、呼び捨てがよかった? だってトメサブローって全部呼んだら長いんだもん」
「別に何でもいいけどさ……」
「ちゃん付けでなければいい?」
「まぁそういうこと……」
さっきは教室中に聞こえる大声で呼ばれてひどく焦った、と留三郎は苦々しく言った。
先ほどC組の教室にいた頃はも頭に血が上っていて、
なにをどう言い放って去ってきたものかも詳しく覚えてはいなかった。
いまはもう目の端に映った光景がきれぎれに思い出せるのみだ。
廊下から隙間を通すようにして覗いたC組の教室。
留三郎の後姿と、女子生徒たちの笑いさざめく姿。
透子がつらそうだったこと……
はそばを歩いている留三郎を横目でちらと見やった。
この制服紛失事件がひと段落したら、
お節介かもしれないが、間に入ってでも本当に仲直りしてもらわなくちゃとかたく思う。
なにかとかばって世話を焼いてくれる幼なじみたちと、転校先で初めてできた女の子の友達。
の周りにいる大切な人たちがみんな仲良しでいるということが、にはいちばん理想的に思える。
(一緒にいてみんなで楽しいって、全員が思えたらいちばんいい)
友人たちに思い馳せるたび、ちくりと脳裏に引っかかるのは家族のことだ。
一緒にいてみんなで楽しいと、そう思っていたのはきっとひとりだった。
だから両親は離婚という結論を二人で出したのだ。
(……もうぜんぜん、元通りの家族には戻れないのかな……)
何度となく考えても、気持ちが沈むだけで終わってしまう想像だった。
は思い振り切るようにぶんぶんと首を振り、ため息にして吐き出した。
気を取り直して目を上げた先では、
文次郎と仙蔵、留三郎が廊下に立ってなにやら会話をするふうに装いつつ、C組の教室内を探っている。
「どいつだ?」
「よく考えれば、が体育館から出てくる直前に出てきた女子たちの仕業ということだろう?
 ……いないな」
確かに、覗き見た先のC組の教室には、制服を持ち去ったと思われる彼女らの姿はない。
C組所属の留三郎が意を決したように教室へ入っていき、
先程のひと悶着の名残だろうが冷やかしのような視線や言葉をちらほらと浴びつつも
それとなく教室内を見回して戻ってきて、それらしいものは見当たらない、と首を横に振った。
そのままげんなりとして言う。
「……始業まで十分もない今時間に女子がつるんで出かける先とか、女子トイレしか思いつかねぇんだけど」
同感、とA組ふたりが頷いた。
団体行動をする理由には皆目見当がつかないタイプの“女子”ながら、もその意見には頷ける。
普通教室は扇形校舎の曲線部分に並んでいるが、
男女各トイレは廊下を挟み教室群の向かい側──曲線部分の内側にあたる──にひとつずつ設置されている。
男子トイレはB組の教室の真向かいあたりだが、女子トイレは少し離れてE組の教室の真向かいにあった。
廊下が湾曲しているせいで、C組近隣からはE組前の廊下は見えない。
まだどこの教室も廊下も生徒が行き交いざわざわとしているが、その中に彼女らがまぎれているのだろうか。
「とりあえず考えられることは、制服は奴らが持ち歩いて現在女子トイレあたりにある……
 もしくは、第二体育館の用具室にある」
「あ、伊作に確認するわ」
留三郎が携帯電話を引っ張り出して、用具室へ向かった一同に電話をかけた。
第二体育館では時間ぎりぎりまでボールで遊んでいる生徒がいるようで、
その声がわんわんと響いている雰囲気が電話から漏れて聞こえてくる。
話を終えて通話を切ると留三郎は頭痛がするとでも言いたげにこめかみを押さえた。
「……電話には長次が出て……
 小平太がバレーボールで遊び出して、伊作はそれに巻き込まれて顔面にアタック食らったらしい。
 で、長次と高槻で用具室内を見たところ、それらしいものはないそうだ……」
「なにやってんだ小平太は……」
「ていうか伊作だ伊作。生きてるんだろうな」
「保健室行きだな、少なくとも、小平太のアタックを顔面に食らったなんていったら」
文次郎と仙蔵、留三郎は、三人一緒にため息をついた。
しかしこれもいつものこと、なのだろう。
最初に仙蔵が気を取り直してこほんとせきをする。
「では、制服の在処はとりあえずこちらに絞られたというわけだな」
「女子トイレ? って、私しか入っていけないんじゃん……」
「自分の持ち物は自分で取り返すということだな……」
容赦なく文次郎が言うが、あきれ混じりの表情はおそらくに同情的な気持ちの表れではあるだろう。
「入口に立っててやる」
「女子トイレの? なんかそれもちょっとやな感じ……」
「バカタレ、奇異の目で見られるのは俺たちのほうだ」
文次郎の反論はもっともだ。
それでもは不服そうに唇を尖らせてみたのだが、
本当は彼らがそこまで気にかけてくれることを嬉しく思う気持ちのほうが大きかった。
今日すでに何度も思い返した“幼なじみ”という言葉がまた頭の中に浮かんでくる。
なんだかあまり男女差を気にかけない、気さくな友達同士、という感じのする言葉だ。
女の子同士のべったりとして思えるほどの関わり方をあまり得意としないには、
それくらいさばさばとした関係のほうが心地よいような気がした。
あまり大袈裟に女の子扱いをされるのも慣れなくてきっと奇妙だ。
(女の子扱いかぁ……)
それは、幼なじみであり続けることとは決して同時に保てない立場だろう。
たとえば透子が、留三郎の前では女の子でしかいられないように。
(でも、それでいいなぁ)
幼なじみのままで。
気遣いや遠慮、隔ての少ない、ただとびきり好きで大切で仲がいいというだけの間柄。
恋愛に近いくらいに特別だけれど決して恋愛ではない、少し子どもじみた関係かもしれない。
それでもは、いまはそれ以上を望みたいとは思わなかった。

女子トイレの前に到着すると、当然ながら男子三人は数歩離れたところでぴたりと足を止めた。
「行って来い」
「うー……気が進まないぃ」
言いながらもはじりじり、トイレに入っていった。
背後で留三郎がメールを受け取ったようで、
伊作を保健室に運んでから手分けして体育館と教室を結ぶ廊下を辿り、
長次は二階から、透子と小平太は一階から戻ってくることになったらしい……と言う声が聞こえた。
は肝試しでもしているような気分で、トイレ入口正面にある目隠しの壁を迂回して奥へ入った。
通常、まず見えるのは左手に小窓、右手に手洗い場、
正面は手前から奥に向かって五室並んだトイレの個室と掃除用具入れである。
左手の小窓は教室のアルミサッシの引き戸とは違い、ハンドルを回して押し出して開けるタイプのものだった。
扇形校舎の内側、つまり中庭へ面した窓であり、
採光の効率のよさが目的である教室の窓とは逆向きであること、場所がトイレであることからも、
これが換気を目的に含んで設けられたものということは明らかである。
この窓が大雨にも関わらず、限度いっぱいまで開いていた。
はぴたりと立ち止まってしまった。
見覚えのある顔の女子生徒が五人、深刻そうな顔をつき合わせてその窓の前に立っていたからである。
五人が五人とも、の姿を認めた途端なにかに怯えるようにびくりと肩を跳ね上げた。
さん……!?」
「ちょ、やばいよ!」
いきなり慌て始めたその態度こそ、彼女らがやったことを明確にに白状しているに他ならなかった。
その騒ぎはトイレの外で待っている男子三人にも聞こえたようだ。
文次郎のどすのきいた声だけがトイレの中に入ってきてぎんぎんと響く。
「いい加減子どもじみたことはおしまいにするんだな!
 いまなら生徒会経由で問題にすることだけは避けてやる」
「そこに制服があるなら速やかにに返して謝ることだ、
 お前たちにしてもこれ以上ことを荒立てずに済ませたいだろう」
追いかけて聞こえてきた仙蔵の声に彼女らは打って変わって泣きそうな顔をする。
「やだ、立花くんまでいるの!?」
「嘘、どうしよ……!」
「扱い違いすぎるだろ貴様ら、怒るぞ!」
文次郎の怒鳴り声に震え上がり、泣かんばかりの悲鳴を上げて肩を寄せ合う彼女らを見ると、
少々かわいそうな気持ちも起きてくるだ。
嫌がらせを受けたのはのほうだというのに、ついつい弁護の声を上げてしまう。
「ちょっと、文次郎、そんな怒鳴らないでよ……」
「て、、俺らはお前をかばってだな……」
どっちの味方なんだと反論する文次郎の語調は少々弱い。
不思議に思いながら肩越しに入口のほうを振り返ってみると、
待っている彼らの姿は見えないながら、なにやら仙蔵が文次郎をからかっているような声が聞こえた。
一瞬遅れて、あ、そうかとも思い当たる。
文次郎を名前で呼び捨てたのは、たぶんこれが初めてだったのだ。
またも無意識のうちに、昔一緒に過ごした頃のくせが戻っていたようだ。
A組二人の声のその向こうでは留三郎がまた電話中のようで、
相手は長次か小平太かわからなかったが、制服が見つかったようだと知らせている。
よかった、これで一件落着かな、と思ってがまた彼女らのほうに向き直ったそのときだった。
だめ、知らない、私じゃない、悪くない、そんな声が幾重にも折り重なって聞こえた。
所持したままでの目からは隠していたのだろう、コンビニのビニル袋に無理矢理突っ込まれたの制服が、
奪い合いでもされているように彼女らの手に手に次々渡り始めた。
ちょっと待って、それ返してと、そう言ってが慌てて手をのばしたとき、
彼女らは反射的にその手から逃れようとしたのだろう。
の手から制服を遠ざけようとして彼女らの手がその袋をはじいた先にあったのは、
大雨の中庭に向かって開いている窓だった。
「わ……ちょっとぉぉぉぉぉ!!」
彼女らを掻き分けて小窓に駆け寄ると、制服は勢い・ビニル袋から飛び出してしまい、
中庭にばさばさと落ちてあっという間に雨ざらしになってしまった。
悲鳴とは言いがたいの叫び声に、駆けつけたくとも女子トイレに飛び込むことはさすがに躊躇って、
どうした、なにがあったと男子三人はどうやら入口付近でおろおろしている。
「制服落ちたぁぁぁ!!」
「落ちた? なんだそりゃ、」
留三郎が言いながら、トイレの入口前の廊下の窓から中庭を覗き込んで制服を見つけたようだ。
「あ、うわ、ほんとだ、中庭に……!」
「中庭!?」
文次郎と仙蔵も聞いて廊下の窓に殺到したらしい。
気まずそうに俯いたままの彼女らに構う余裕もなく、は女子トイレから駆け出した。
待っていてくれた男子三人はとっさにのほうを向き直った。
留三郎はまだ電話中だったようで、携帯電話を耳に当てたままだ。
「拾ってこなきゃ……」
言いながらはそれでも少し躊躇った。
いまから中庭まで制服を拾いに行けば、とりあえず授業に遅刻することは確実である。
事情が事情だけに容赦してもらえるような気はしたが、
そうしてクラス中、また担当教員にことをくわしく知られてしまうことはできれば避けたかった。
悪目立ちをしたくない、ということではない。
嫌な思いをさせられたには違いないが、
彼女らがに嫌がらせを加えたがためとして罰せられることは少しも望ましくない。
ただ制服が手元に戻ってきて、彼女らが非を認めて謝ってくれさえすればはそれでよかった。
誰かを悪者にしたり、犯人にしたりしたいと思って推理合戦など繰り広げたわけではない。
もうひとつついでに言えば、大雨の中庭にいま出て行って濡れずに済むわけもなかった。
二日連続でずぶ濡れという展開は避けたい。
の足を迷わせる些細な理由はいくつもある。
どれもこれも、まるで言い訳のような些細過ぎるものだったが。
弱りきっては窓の外へ視線をやった。
大雨の中に放り出されて泥水にまみれている制服を見下ろす。
あの制服は家族三人で暮らした記憶を共有している、
いまのにとってはなににも代えがたい大切なものだ。
持ち出され隠され、窓から投げ落とされて汚れていく、
その制服を見つめているうちに気持ちがたちまちみじめに沈んでゆく。
まるで思い出がそのまま冷たく濡れて汚れていくようだと思ってしまうと、瞳に熱く涙が浮かぶ。
それでも決して涙を流すまいと、は唇を噛み締めて感情の沸騰するのに耐えた。
なにかの塊がつかえているかのように呼吸は細く浅く、喉元が苦しい。
それでも我慢さえしてしまえば、この感情をやり過ごすことができれば、
なにもかもなかったことにして落ち着いて対処ができるようになる。
制服は授業のあいだじゅう濡れていることになってもきっと大丈夫だろう。
クリーニングにでも出せば泥も汚れもきれいに落ちるはずだ。
思い出のこもったものが汚れても、たとえ壊れても失っても、思い出そのものがなくなるわけではない。
頭ではそこまで考えが及んで、それを理解することもできた。
それでもはまだ、すぐには割り切ることができそうになかった。
なにもかもなかったことにして……などと考えてしまった自分を自嘲する。
告白をなかったことにしてしまおうとした透子のことを責められる自分では到底ないではないか。
どうすることもできずに佇むだけのに、誰も声をかけることができずにいた。
雨の音と気まずい沈黙を破って、響いた予鈴は思ってもないほど大きな音に聞こえた。
あと五分で次の授業が始まる。
迷っている暇ももはやなかった。
ぐっと覚悟を決めて、教室に戻ろう、制服は授業の後で、とは言おうとした。
そのとき、まだ通話を切らずにいたらしい留三郎の携帯電話から、
なにやらわいわいと騒ぐ小平太の声が聞こえてきた。
「おい、小平太? なにやって、」
電話に向かって問いかけながら、その電話から何かに気づいた留三郎が、はっと廊下の窓から中庭を見下ろした。
皆がつられて窓の外を見下ろす。
ばけつを返したような、とはこうしたことだろうというほどに激しさを増した雨の中を、
誰かが中庭に出てきたのである。
その姿を認めては驚いた。
「高槻さん……!?」
制服を着崩したり、髪を染めたり・脱色したりする生徒も多い中で、
セーラー服をぴたりと身にまとった姿、長いまっすぐな黒髪は透子の特徴にすら思える。
透子が中庭へ歩いて入ってきて、踏み石の上を器用に辿っての制服を次々拾い上げるのには
ものの一分少々ほどしかかからなかっただろう。
しかしわずかそれだけのあいだに透子の全身はくまなく雨に濡れ、
長い髪は肌や制服のえりもとに貼り付き、プリーツスカートは重そうに足にまとわりついている。
「うわ……! 高槻、あいつ!」
「……案外突拍子もない行動に出ることがあるのだな」
A組二人はあまりの光景に顔をしかめる。
投げ出された制服を全部拾い終えると、透子は確認するようにあたりを見回し、
二階の廊下の窓から覗いているを見上げると抱えた制服をわずかに持ち上げて示して見せた。
窓を隔て、階を隔て、透子は声に出して何か言ったわけではないだろうが、
その視線がまたに親しげなメッセージを寄越したように思えてならなかった。
“ほら、もう大丈夫よ”
途端、先程までの惨めな思いは一瞬間に消え失せて、の胸の内には急速に別の感情が膨らんだ。
言葉に直しようもない感情が怒涛のように押し寄せて、の目にはまた涙が浮かぶ。
透子の存在が、その言葉や目線や行動が、をこれ以上ないというほど力強く救い上げてくれた。
「高槻さん……!」
感極まって、は涙目のまま一階へ向かって脱兎のごとく駆け出した。
通話を切ることも忘れて呆然と窓の外を眺めていた留三郎も、
何かに気がついたように身を翻すとC組の教室にまず戻ってからの後を追って走り出した。
置いてけぼりを食らった格好の文次郎と仙蔵は、
さて自分たちはどうするか、というように一瞬視線を見交わしたが、結局やれやれと歩を踏み出す。
と、女子トイレからおずおずと、
の制服を持ち出した女子生徒たちが出てきたのを目に留め、彼女らに向き直った。
よりにもよって生徒会長と、恐らく淡く想いを寄せているものもあるだろう仙蔵とににらまれて、
女子生徒たちは萎縮しきって泣きそうな顔で俯いた。
しかし、泣かれようがわめかれようが、それで動じる文次郎と仙蔵ではなかった。
無言で彼らの視線に晒されることは、女子生徒たちにはこの上なくつらい仕打ちだった。
それでも必死で耐えつづけている彼女らに、
呆れどころかあわれみに近いほどの色のにじんだため息だけを残して、彼らは躊躇いなく背を向けた。
誰かがか細い声で、ごめんなさい、とその背に叫ぶ。
文次郎と仙蔵は鬱陶しそうに一応肩越しに振り返ってやった。
「誰に謝ってんだ、バカタレが。二度とやりやがったら容赦はせんからな……肝に銘じておけ」
当人には頭も下げずに我々には許されたいというのか? 愚かな女は嫌いだ」
真っ当な文次郎の言葉の効果は、仙蔵の放った嫌いだの一言で相殺されたに等しかった。
女子生徒たちはひくっとしゃくりあげると、肩を寄せ合った格好のままですんすんと泣き出した。
わずかばかりの未練もないようにさっさと踵を返し、文次郎と仙蔵もやっと一階へ向かう。
階段をおりながら文次郎はため息混じりに呟いた。
「えげつねぇ言い方しやがる」
「自分に正直と言ってくれ」
どこか愉快そうですらある仙蔵の横顔を見やって、
文次郎はもう何も言うまいと、悪あがきのようにまた息をついた。

一階の直線廊下に面した中庭入口付近にと留三郎とが駆けつけると、
廊下で待っていたらしい小平太が透子を迎え入れたところだった。
ずぶ濡れの透子の姿を目にするとこらえていた涙があやうく流れ落ちそうになって、
は慌てて目をぱちぱちとさせた。
すでに泣きそうなのその様子を見て、透子はふっと、困ったように笑った。
「……これで少しは償いになるかしらね」
は言葉に詰まってしまった。
いいの、そんなことどうでもいいの。
その話はおしまいって、さっき言ったのに。
なんとでも答えたかったが、口を開けば嗚咽も止まらぬほど泣き出してしまいそうで、
はただ何度も頷く以上のことができなかった。
女子二人のやりとりに目を奪われていた留三郎は、そこでやっとはっとして慌てて透子に歩み寄ると、
教室に寄って引っつかんできた深緑色のパーカを透子の肩に無理矢理着せかけた。
「風邪引く……着替えるまで、これ、」
透子はぽかんと、留三郎を見上げた。
留三郎は気まずそうに、喉から絞り出したような低い声で言った。
「……なんか、ごめん、……いろいろ……」
の制服を雨に濡れながら拾い集めたことが透子なりのへの償いであるとするなら、
これが留三郎なりの透子への侘びなのだろう。
透子は落ち着かなさそうに、肩に着せ掛けられたパーカのえりもとにゆびで触れた。
透子が留三郎に想いを寄せていたことをひとり知らず、
いまにいたっても事情がよく飲み込めていないらしい小平太が、訝しげに首をかしげる。
「なに? 留ちゃん透子ちゃんのこと好きなの?」
留三郎がぶっと大袈裟に吹き出した。
「なっ、違っ、いや、違くないけど、て、違う、そういう意味じゃ」
「留くん落ち着いて!! 墓穴掘るだけだよ!!」
「えっ、いや、……ごめ、……ごめん、高槻! そういう意味じゃ、っていうかわかるだろ!? わかれよな……!!」
見ていることができずにも横から口を挟んだがあまり効果はなく、
留三郎はひとりであたふたと慌てて焦りをつのらせていく。
小平太は尚も納得いかないという顔で留三郎に迫る。
「なにごめんって? なんかあったの? あったろ?
 さっきから留ちゃんの様子おかしいのって口げんかだけが原因じゃないんじゃんこれ?」
「なにもねぇって!」
「てんぱりすぎだって……」
「留くん、カオすっごい赤くなってるよ……」
始業一分前頃だったが、廊下で大騒ぎである。
文次郎と仙蔵は遅れて追いつくや、呆れたようにため息をついた。
「……どっからツッコんだものだろうな……」
「高槻……玄関へ戻って傘を取って、玄関エントランスから中庭に入ったほうがよかったろう?
 お前らしくない短慮な判断だな……」
「戻るのが面倒だったのよ……」
「面倒って理由でずぶ濡れるなよ……」
「お前があほのC組なのが今日理解できた気がする」
「失礼ね」
軽くA組二人をにらみつけると、透子はに向き直り、
腕の中で簡単に制服をたたむとそれをのほうへ差し出した。
はおずおず、それを受け取る。
水を吸ってずしりと腕に重いそれを受けて、やっと心の底から安堵した。
「……びしょ濡れね。もう少し早く気づいて、なんとかできたらよかったのだけど」
「ううん、……ありがとう……!」
は思わず、ぎゅぅ、と透子に抱きついた。
「ちょっと、あなたが濡れちゃうわ、さん……」
「いいの……!」
嬉しいからこうしたいの、と、は吐息混じりにそう言った。
透子は身をよじってしばらく抵抗していたが、やがて諦めたように苦笑した。
「仕方ない方ね」
幼なじみ四人は面食らって数瞬石化してしまった。
女子同士の絆のありようはわからないと思い、そこからやや外れた感のある二人と思ったはずが、
こうして目の前で抱き合っている様子などは彼らにはよくわからない女子の姿に他ならない。
気持ちはわかるが一歩引きたい、という思いで彼らは冷ややかな横目を見交わすばかりである。
ともあれ、かなり汚れてしまったものの・制服は無事にの手元に戻った。
今度こそ、これにて一件落着……だろう。
「まぁ、これで、いい……んだろうな」
「いいのではないか? 平和な光景だ。いまやまで濡れているが」
「ふーん? つーか留ちゃんどさくさで私の質問答えないつもりだろ」
「だからなんでもねぇっつってんだろうが……」
なんとなく遠巻きに女子二人を眺めたままの四人だったが、
とうとう鳴ってしまった本鈴にびくっと飛び上がる。
「うぉっ、始業……!!」
「とりあえず高槻とは保健室行って着替えてこい!」
A組二人が真っ先に我に返る。
はやっと透子から離れ、わかった、じゃあと頷いた。
「こへ、先生に言っといてくれる? ちょっと遅れるって」
「おー、わかったー。なんか懐かしい呼び方」
「あ、また」
無意識に、とは笑った。
保健室のほうへ歩き出そうと透子の手を取ると、透子は一瞬躊躇うように振り返った。
その視線に気がついて、留三郎は答えるように教室に戻ろうとしていた足を止める。
透子はわずかに逡巡してから、唇の端でちいさく微笑んだ。
「……ありがとう、食満くん」
透子はまたゆびさきで、留三郎から借り受けたパーカのえりもとに触れてみせる。
留三郎は虚を突かれたように目を見開いた。
彼の返事を待たず、透子はと連れ立って保健室のほうへ歩いていってしまった。
その後姿を見つめたまま、留三郎はしばらく一歩も動くことができなかった。
「おーい留ー、先生もう来てんじゃねー?」
後ろから小平太に呼ばれ、留三郎はそれでようやくはっと気づく。
後ろ髪をひかれるような思いながら、留三郎はと透子に背を向けた。
「待てよ、いま、行く……」
自分にすらどのように説明していいものか判断しかねる、曖昧な心地をむず痒く抱いたまま、
留三郎は小平太のあとについて二階の教室へ向かう階段を急いで駆け上がっていった。

「おやおやどうしましたか、ずぶ濡れの姿で。
 昨日・今日と盛況ですねぇ。保健室はあまり繁盛しないほうがいいのでしょうが」
保健室にやってきたと透子とを見るなり、新野は苦笑した。
顔面にバレーボールを食らって倒れたらしい伊作もまだそこにいて、
保冷パックで鼻を冷やしながらぼんやりとした視線を二人に投げた。
「あれ……高槻までそんなに濡れて、どうしたの……?」
まだ痛みや腫れが引かないらしく、伊作は鼻や額を真っ赤にして鼻声で話す。
「いさくん……痛々しい……」
「善法寺くんこそ大丈夫なの? かなり強いアタックだったけれど」
「うーん、まぁ、たまにあることだから……」
伊作はもう諦め気味なのか、へらりと笑ってそう言った。
新野は二人のために着替えの体操着を用意しようと立ち上がる。
がしっかりと制服を抱えているのに伊作はやっと気がついて、にこりと笑った。
まだ鼻声のままで言う。
「よかった、制服見つかったんだね。大事だもんね、それ」
大川学園高校の制服ができあがってしまえばもう着ることはないだろうそれを、
大事なものだと伊作はさらりと言い切った。
彼に深い考えがあったわけではないだろうが、とにかくの胸の内にその言葉は強く響いた。
「うん、高槻さんのおかげ……あ、もちろんいさくんも、みんなのおかげもあるよ」
「うん、そっか。よかった、二人ともほんとに仲良くなったみたいで」
と透子は横目を見合わせ、クスリと笑う。
伊作はまいったと言いたげに一緒に苦笑した。
「あー、なんか男子は入っていけない空気ができてる? この短い時間のあいだに」
「そうよ、さっきなんてさんに抱きつかれてしまったわ。
 潮江くんたち、目を白黒させて……男子に嫉妬されるなんて、初めて」
おかしそうに笑う透子に、は首をかしげた。
「しっと?」
「してたわ、絶対に」
「えー、僕もその場で見てたかった……」
「あなたはなんだかしょっちゅう残念ね」
「高槻、それはヒドイ……」
明るい笑い声が三人のあいだに起こる。
新野は体操着を二人分とタオルを持ってきて、と透子に手渡した。
「はいはい、授業はもう始まっているんですよ、すみやかに、お静かに。
 二人とも風邪を引かないように、しっかりと水気をぬぐって。
 さんはなんだか雨に好かれますねぇ、こちらへやってきてから」
「それおかーさんにも言われました、雨女って……生まれた日も雨だったらしいです」
「おやおや、それは」
新野はおかしそうに笑い、着替えのためにベッドの周囲のカーテンを引いてくれた。
透子に続いてそこへ入ろうとしたを、伊作が小声で引き止める。
「ね……高槻と留と、なんかあったの? あれ留のパーカだよね?」
さすがはクラスメイトである、目ざとい指摘だ。
は少々考え込んでみてから、悪戯っぽい視線を伊作に返した。
「乙女の秘密です」
「えー、気になるよ、それ」
「男子は仲間はずれだもん」
「ずるい!」
拗ねたように伊作は言うが、は笑って誤魔化してしまった。
カーテンの奥に引っ込んでしまうと、やりとりを眺めていた新野が面白そうに言う。
「善法寺くん、いま鏡を見れば見られますよ、高槻さんにやきもちをやいている顔というのが」
「え、先生、やめてくださいよ……そんなですか僕?」
「そんなです」
「えー……」
心外そうに伊作は眉尻を下げた。
女子二人は着替えながら、声をひそめつつも楽しげに会話を交わしている。
お互いの家が市内のどこにあって、歩いて遊びに行ける距離だという話。
放課後に寄り道のできるカフェや雑貨屋の話。
試験と試験勉強の話。
外で耳を澄ましている伊作にはしかし、もうついていけそうもないテンションだった。
クラスでもひとり存在が浮いた感のあった透子と、
転校してきたばかりで女子の友達がいなかったがこうして互いに打ち解ける、
それがいいことだと思うのは決して嘘ではないのだが……
「お二人がこの調子なら、君たち六人、これから少し面白くないかもしれませんねぇ」
「う、そんなことないです」
精一杯そう言って伊作はつんと澄ましてみせる。
と透子が着替えを終えて出てくると、新野は一同を見渡して言った。
「さあ、午後の授業はすでに始まっていますよ。皆さん、急いで教室に戻ってください」
「はーい。あー、結局お昼ごはん抜きだぁ」
「本当ね」
「今日はおべんとあったのになぁ。休み時間にC組まで早弁しに行こうかなー」
「むしろ遅弁なんじゃ……ていうかも高槻もお昼食べ損ねたの?」
仕方がないよね、と二人は頷くと目を見合わせ、肩をすくめた。
困りましたね、と新野も苦笑顔だ。
三人は保健室を出ると小走りで教室へ戻っていった。
きっと教室では、クラスの違うものもきっと、三人の帰りを待ちわびているだろう。
思って新野は微笑ましく、その後姿を見送った。



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