雪月花に結ぶ  夏休み・後編


夏期休暇一週間。

文次郎は早朝起き出しては山へ行ってまだ涼しい時間帯にせっせと鍛練を積み、

ついでに昼頃まで夏休みの宿題の昆虫採集をし、ゲッソリとしながら帰宅する日々を送っていた。

此度の宿題には疑問が尽きない。

一人ひとり内容が違うというから実力に合わせて選ばれた課題を与えられているのだろうが、

それにしても昆虫採集とは一年生がやるような宿題ではないか。

自分が生物委員だというのならまだ理解もできようが、会計委員に昆虫は必要ない。

友人の中在家長次には確かアサガオの栽培と観察が宿題として当たっていた記憶があるが、

長次の無表情の中になんとなく楽しそうな色が見えたのは気のせいか。

いい奴なのには違いないが、なんだか掴み所がないという印象も相変わらず褪せない相手である。

善法寺伊作にも少しレベルの低い課題が当たった。

己のレベルに合わせて与えられたのではと疑えば低いレベルの課題が当たることを決して喜べはしないが、

普段不運と呼ばれがちな伊作はこのことを滅多にない幸運と見てとったらしい。

合戦場で旗をかすめ取ってくるくらいなら不運がついて回ろうとなんとかなるだろう。

持参していた竹筒の水をあおり、文次郎は少し休もうかと座り込んだ。

身体を動かして集中することがいったん途切れると、考えないようにしていたことが否が応でもよみがえる。

を嫁にほしいとすでに口に出して本人に言ってしまった以上は、

今文次郎自身の気持ちが揺らいだ状態であるなどおふざけ以外の何ものでもない。

けれどこの一週間、文次郎はずっと考え続けて自分の本音を掴みきることができないままでいた。

自分のしたことへの責任をとる方法は何かと、

あの事故以来ずっと考え続けて出た結論がを娶ることだった。

傷つけた分をそばにいて謝り続けること、できるものならその心を癒してやること、

己の技量で足るかどうかはわからなかったが身を尽くしてそうしたい願いが文次郎にはあった。

時間がかかっても、それでの気が晴れてくれれば、いつか笑顔を取り戻すことができれば、

それ以上望ましいことはないと思った。

それなのに、そんな理由からを娶りたいというのならお断りだとの両親は言うではないか。

長いこと己の信念に近いところで抱いていた気持ちを覆されてしまっただけに、

文次郎は端から見るよりは相当深いところまで落ち込んでしまっていた。

どこから考え始めればよいのかすらがわからない。

を妻にと思ったのは真剣に考えを巡らせた結果であって、決して不真面目なことではない。

忍としての任務はあるが出来る限りのことを、家のことをかえりみては気遣う心づもりはある。

多忙がゆえに妻をほったらかしにせざるを得なかった人は学園の身近にいるわけであるが、

申し訳ないと思いつつ家庭の面では噂の人・山田師範は反面教師である。

もちろん常から人一倍の鍛練を積み一流の忍を目指しているのも嘘ではないから、

両方の理想を叶えるためには家庭と仕事とを緻密に両立する必要がある。

文次郎の頭の中ではと夫婦の誓いをたてて一緒に暮らすことがすでに計画の一部のようになってしまっていた。

それをひっくり返されたことが打撃になったのだろうかと文次郎は考える。

だとしたら自分で言うのもなんだが、笑い話である。

の人生を、選ぶのも決めるのも自身であるというのに。

根本的な問題が見えていなかったことに文次郎は今になってやっと思い当たったのである。

忍の世界と関係のないところに暮らすが、忍になろうとしている男に嫁いで幸せになれるのだろうか。

四六時中構ってやるわけにはいかないし、命に関わるような危険が常に隣り合わせの生活である。

どんなに気をつけて守ろうとしても、どこでを巻き込んでしまうかがわからない。

過去あった事故のように、己のせいでを傷つけるようなことは二度とあってはならない。

今ではじゅうぶん傷ついている。

これ以上は必要ない。

それよりなにより、自身の気持ちを文次郎はちっとも考えに入れていなかった。

幼なじみの贔屓目とでも言おうか、自分がに対して抱いているのと同様に、

も文次郎に対して多少の好意は抱いているはずである、その確信はある。

けれどの父親が言ったのはもっともなことだ。

だってきっと不足なく愛してくれる男のところへ嫁いだほうが幸せになれるし、

更にそれが自身も愛する相手であるならこれ以上の好条件などあるはずがない。

覚悟の通りにに求婚はしてみたものの、文次郎にはそのいちばん大事なところが欠けているらしかった。

だからといって。

(……幼なじみだぞ……惚れたのはれたのと、すぐに自覚などするものか)

と己とのあいだにある距離になんと名をつけてよいものか、文次郎にはわからなかった。

恋だの愛だのと改めていうにはお互いのことを知りすぎていて。

そう思ったあとで文次郎ははたと気がついた。

まだ赤子の頃からすでに親たちが文次郎ととをひとまとめにして遊ばせておいたので、

いつからの知り合いであるとは断じる方が難しい。

しかし文次郎の脳裏に色濃く焼き付いているのはあの事故の前後の光景ばかりで、

それ以前の記憶は記憶とは呼べないほどうっすらとした一瞬の印象くらいでしかなかった。

家族のように打ち解け、友人だとか親友だとか、幼なじみという言葉すらも他人行儀に思えるようなについて、

文次郎が思い返せる記憶のすべては彼が忍術学園で学び始めたあとのことばかりなのだ。

巡る季節、夏休み、秋休み、冬休み、春休み、また夏休み……

記憶の中に時間を限ってしまうとするなら、一緒に過ごした時間のほうがはるかに短い。

会うたびには少しずつ少女らしく、やがて大人の女らしく成長をし、

御転婆だったはずの気性はすっかり落ち着いて物静かになってしまった。

会うごとに違う人間のようだと思ったことすらある。

そこまでも距離の開いてしまった己とのあいだに、どれほど共有しているものがあるというのか。

真実のところはのことなど何一つ知らないのではないか。

だとしたら、覚悟の勢いでに求婚した己の行為はただの無神経である。

思って文次郎はぞっとした。

太陽が真上に近い位置までのぼった頃、

文次郎は汗だくの身体とつかまえた昆虫を詰め込んである網袋とを引きずって自宅へと戻った。

町は目覚めからしばらく、店々はのれんを出し露店もぽつぽつと出て賑わい始めている。

そのあいだをぬうように歩きながら、文次郎の目は自然と屋の藍色ののれんに吸い付いた。

店はとうに開いてできたての菓子が並べられている。

軒先に漂う甘い匂いは毎日のように人々の足を留めることに成功している。

文次郎の腹がぐぅと鳴ったが、空きっ腹に甘い菓子を詰め込もうという気は真逆に起きてはこない。

屋の軒先には今、ひとりの客がのれんをくぐって店内から出てきたところである。

身なりのいい若い男で、見るからに家柄のよい者であろうことが伺える。

菓子の包みを手に男は店を振り返る。

見送りに出てきた顔を見て文次郎はぴたと足を止めた。

咄嗟に身を隠し気配を絶とうとしてしまうのは忍として訓練された彼の性である。

普段なら店の奥に座ったままで外までは出てこないが、

こともあろうに笑みを浮かべて、その若い男を見送りに出てきたのだった。

心の臓が凍りついたような気がした。

なんで、あんなどこの馬の骨とも知れん男に、……

身勝手に思った己を、文次郎は即座に戒めた。

が見送ろうとしている男は、潮江の家よりは格が上の相手と思って間違いはなさそうである。

供も連れずに商家へ買い付けに来ているという目の前の事実を訝しく思いはするが、

その男の真意がとわずかな時間でも二人で会って話をしたいというところにあるというのは見え見えである。

想う相手の前にいて、どうして男はああもしまりのない顔つきになってしまうのだか。

けれど逆に思えば、の前で自分はあのように嬉しそうな態度に出ていたことがあったろうか。

文次郎ははっきりと否と言える。

寝ているのかと心配されるほど目の下の隈は目立つようだし、愛想のない性格をしていることも文次郎自身で承知の上だ。

ついでに言えばせめて女の目を引くだけの器量良さも持ち合わせてはいない。

文次郎の親しくしている友人諸氏はそれぞれなりに良いところがあり、

女どもにはわからんだろうと思っていたら意外に多くの娘たちに想われていたりしてなかなか侮れない。

なんだ、色恋に縁のないのは自分だけだったのかと、そのときは笑い事で済んでしまったものが今は笑えない。

幼い頃よりの知己の間柄というだけで改めてになにか訴えたことがあったか?

あるわけがない。

あったらあったで、きっとは訝しく思って熱でも出たのかと問うてくるだろう。

結局のところ、が文次郎を気にかける素振りを見せてくれるのは、幼なじみであるからという以外になにもない。

他に想う男もいないと言っていたが、だからといって文次郎に嫁ぐことがよしというわけではもちろんない。

このうえ更に落ち込んだ文次郎は、それでも目の前の光景から目を離すことができなかった。

形勢は少しずつ変わりつつある。

男はいつまでも立ち話をやめずにと話し続けようとし、

は口元に笑みを浮かべながらもその目にありありと迷惑そうな色を浮かべている。

それも長い付き合いの俺だからわかることだろうと文次郎は思い、

一緒に過ごした時間は短いものとなりつつあるかもしれないが、

について自分だけが知っていることもたくさんあるのだということを思い出して少しほっとした。

男は調子づいて、に一歩詰め寄った。

がじりと身を引く。

(あの男、なにしてやがるんだ……)

の足にはとうにきつい負担となっているはずだ。

文次郎はちっと舌打ちし、二人へ向かってずんずんと歩み寄った。

。なにしてる」

「文次郎……」

「炎天下に笠もなしに長いこと外に突っ立っていてはお前の身体に悪い。さっさと入れ」

「……ええ」

は視線だけ申し訳なさそうに客の男を見上げた。

いきなり現れた邪魔者に男はあからさまに不機嫌そうな顔をしたが、渋々とに別れを告げるとやっと店先を去った。

店ののれんをくぐって中に入ると、文次郎はまず店先にを座らせた。

「……いつから見ていたの?」

「何を言ってる、通りがかっただけだ。毎朝の鍛錬の帰りでな」

「だって、『炎天下に笠もなしに』はわかるけれど『長いこと』って。ずっと見ていないと出ない言葉よ」

見事に虚をつかれ、文次郎はぐっと言葉を詰まらせた。

「でも、助かったわ。いつも話が長くなるお方だから。

 御得意様だし、御機嫌を損ねるような態度には出られないから断りづらいの」

「……客商売も大変なことだな。いつの間に愛想笑いなんか覚えた」

ばかな問いだとわかっていながら、文次郎は当てこすらずにいられなかった。

今、の顔からは愛想笑いすらも消えている。

言葉に隠れた小さな棘には気がついたのか、腕組みして目をそらしたままの文次郎を見上げた。

「だって、私……この店の跡継ぎですもの」

はもぞもぞと座り直すと、着物のすそをひっぱって整えた。

文次郎はちらりとに視線を戻す。

俯き加減のの、伏せられた睫毛がちらちらと、文次郎を誘うように揺れている。

「……座らないの?」

「ああ……すぐ帰る」

「戻ってきたと思ったら一週間も顔を出さないで。返事を考えておけと言ったくせに」

思いも寄らないところで唐突に蒸し返されたくだんの話題に、文次郎はあからさまに動揺した。

「なっ、べ、別に! 今すぐ聞かずとも構わんことだ」

「じゃあ、いつ言えばいいの。文次郎がそう言ったから私だってちゃんと考えたのに」

「……な、なら、……言ってみろよ」

「その前に私にも聞きたいことはあったのよ」

は文次郎をまっすぐに見上げる。

射竦めるような視線につい気圧されそうになり、文次郎はほとんどムキになるようにその目を見返した。

大人しくなったと思ったらこいつ、気性の荒さは昔のままか。

は昔から結構はっきりとした物言いをする娘だったのだ。

だから、もしふられるとするなら、その言葉が恐い。

「忍になるんでしょう、文次郎。

 夫婦になっても毎日家から仕事に出かけて毎日帰宅するような仕事じゃないわね?」

「ああ」

「お家はどうするの」

「なんだよ」

「あなたは潮江家の跡継ぎでしょう。私だって屋の八代目なのよ。

 ……でも父様も母様も、私には必ずしも家を継がなければならないとは言わなかったわ」

「そんな話をする年かよ……」

「この一週間もっぱらの話題よ、文次郎が私を嫁にと言ったから」

「そりゃ、そうだろうが……」

返す言葉が素っ気ない。

実の詰まった返答もなにも、文次郎の思考回路はそれぞれの家のことにまでは到底及んでいなかった。

自分は忍になるのだと、そのことばかりを考えていたから。

は文次郎に構わず続けた。

「……私は、屋を離れるつもりはないわ」

静かな声だったが、文次郎の胸のうち深くにその言葉はずしりと刺さる。

こんなにもあっさりと、断りの言葉を聞くことになるとは思わなかった。

ああ、俺はすでに根っからの忍なんだなと文次郎は考える。

こんな時ですら平気な顔をし続けていられるとはと、自分で驚いた。

求婚する覚悟はあったが、断られる覚悟はそれに比べて弱かったかもしれない。

心のどこかでは、は必ず自分を受け入れるという思い込みがあったのだろう。

こんなにも頑なに忍であろうと文次郎がつとめていたのは、のためであったというのに……

しかしそれも身勝手な言い訳かと、文次郎は自嘲気味に笑った。

の名を出せば、なんでも自分を動かすに都合の良い理由に仕立て上がると思っていたことに今更気がついた。

文次郎の静かな落胆には気付かず、熱心に続ける。

「仕事に出ている日が長く続くというのを、ひとりでただ待っているなんて退屈は嫌」

「……だが、そうなるだろうな。忍の任務とは、そうしたものだ」

「だから私はこの家から出ないでここにいて、八代目として店の仕事をするわ。

 何もかも父様と母様と同じようにとはそりゃあいかないでしょうけれど、やれることはあるはずよ」

「ああ。お前なら大丈夫だ」

「だから文次郎は文次郎で、忍の仕事をして、帰ってくるときは屋に戻ってくるようにすればいいわ。

 平安の世の殿方達は、奥方の家に通っていたのでしょ。そんなふうに」

いきなり話の矛先がおかしい方にブレて、文次郎は思いきり怪しむような目をに向けた。

一方のは、よりにもよって文次郎を平安貴族になぞらえたことを

彼自身は訝しく思ったのだろうと勘違いしたままで話を続ける。

よもや、文次郎がふられ話を聞いているつもりでいたとは思ってもいない。

「子どもを授かりでもしたら、相談してそれぞれの家を継がせるようにしたっていいかもしれないわ。

 私、あなたとのあいだにできた子どもだとしても、必ず忍に育てようとは思わないわよ、文次郎。

 留守がちになるのなら、身ごもるのは早いほうがいいわ。子どもは好きよ。何人もいてもいい」

文次郎はたっぷり数十秒ほども黙ったままでを穴のあくほど見つめた。

怯まずにその視線を見返しつつ、はなんだか文次郎の様子がおかしいということにやっと気付く。

「私の言う意味、わかる? 文次郎」

「……俺はお前に断られたんだと思っていたんだぞ。今の話」

「……いつ断ったというの」

「いや、……いいわ、もう」

すっかり拍子抜けして、文次郎はごほ、と誤魔化すように咳払いをするとまたから視線を外した。

受け入れられたのだとわかった途端に頬に熱がのぼる。

この場が学園でなくてよかったと、文次郎はつい考えた。

仙蔵あたりが見ていたら、それはもう悲惨なことである。

「お前、気ィ早いな……」

「なにが?」

「話がまとまる前に子どもの話か」

なんだか可笑しくなって、文次郎は笑いを漏らす口元に手を当てた。

は不思議そうに首を傾げている。

今朝方から悶々と考え続けたことも何もかも、がよしと頷いただけで溶けて消えてしまう。

その程度の心配事だっただろうかと今は奇妙に思えてしまうのが不思議だ。

自分一人の頭の中だけで、想像は浮き上がったり沈んだり。

思えば滑稽な話だと文次郎は思った。

昼餉をまた一緒にとの母親が出てきて誘ったが、文次郎は丁寧にそれを辞退し、

とりあえず宿題用にとらえた虫をどうにかすべく家へ戻ることにした。

ばかばかしいほど足取りが軽くなる。

ここが誰が見ているかもわからないあの学園でなくて本当に良かったと、文次郎は改めてそう思った。

帰宅してから井戸端で水を浴び、軽く昼餉をとってから、心地よく疲れた身体をしばし部屋で休める。

実家にいればこそののんびりとした時間の流れを、今となってはたまの贅沢であるからこそ文次郎は楽しんだ。

障子はみな開け放ち、庭から通ってくる涼しい風を部屋へ通す。

ごろりと寝ころべば、風に乗って届く庭の木々の清々しい香りが心身の疲れをほぐしていくようである。

屋敷の居並ぶ静かな通りにも音はあふれ返っている。

人の行き交う足音と声、風の鳴る音に木々のざわめき。

聴力も任務に必要なことであるからと鍛え上げた技能でもあるが、今は少しくらい警戒を怠っても罰はあたらんだろう。

普段の彼には油断に値するようなことを思ってしまったのは、

文次郎の求婚を受け、も自分の想像した未来の中に勝手に文次郎を組み込んでいたという事実を知ったからだろうか。

聞いて以来文次郎はひどく浮かれているのだが、それを周りはもちろん己にすらも隠そうと、

気を緩めるとにやけてしまいそうなところ必死に冷静な顔を装うという無駄な努力を続けている。

身勝手な想像を巡らせて一喜一憂、また真剣に考えを巡らせたりするあたり、将来は似たもの夫婦かもしれない。

目を閉じて耳以外の感覚を閉ざし、音だけに意識を集中していると、どこぞで奥方達の立ち話でもあったのか、

甲高い女の声があらまぁ、屋のお嬢さんではありませんかと言ったのが聞こえた。

か、と文次郎の意識は早々と醒め、彼は畳の上に起きあがった。

がわざわざ、歩きづらかろうにこの界隈までやってくるのは、潮江の家に用事があるからに他ならない。

庭から迎えに出ようとしたところ、聞こえてきた女達の声に文次郎は凍りついた。

暑い日が続いておりますこと。

お店の御用事でいらっしゃいましたの?

まぁ、まぁ、普通の人ならなんてことのない距離ですけれど、

御御足のお悪いお嬢さんがここまで足を引きずっていらっしゃるには相当お時間がかかるのでしょう?

この暑さの中、お菓子が傷んでしまっては勿体ないこと。

大丈夫かしら?

そういえば、この間は三松屋の若様とのあいだに御縁談がおありになったとか。

あら、でもたしかあちらの若様は、先日別のお嬢さんとのお話がまとまったと伺いましたけれど?

屋さんも大変ですこと、次から次と縁談が流れておしまいになって。

けれど致し方のないことかもしれませんわね。

生まれたやや子にまで足のおかしなのがうつったらことですもの、誰だって心配になりますでしょう。

お気の毒に、心から御同情申し上げますわ。

どちらのお宅をお訪ねですの?

御無事でお着きになることをお祈りいたしておりますわ。

お急ぎになったほうがよろしいのでは、さん?

あまりの物言いに文次郎はカッとなり、傍らに置いたままだった刀をひっ掴んで庭先へ飛び出した。

は青い顔をして、それでも気丈に唇を噛みしめ、怒り出したいところをじっと耐えているのだろう。

急に姿を現した文次郎に、嫌味な女達の集まりは気まずそうに目を見合わせてこそこそと黙り込んだ。

「……。よく来たな、庭からこっち入れ。暑かっただろう」

は黙ったままで文次郎に向き直り、上手く動かぬ足で歩き出そうとする。

庭の中へ招き入れてやると、を背にかばうように立ち、文次郎は女達を見据えた。

「……は俺の許嫁だ。品のない言葉で侮辱するのならこちらとて容赦はせん」

文次郎はわざと女達の目に大袈裟に触れるよう刀を持ち替え、チキ、と小さく音を立てた。

女達はひっと声をあげて蜘蛛の子が散るように逃げ帰ってしまった。

「……クソババァどもが」

悪態をついて、文次郎は内心恐る恐る、を振り返った。

は凍ったような無表情のまま、縁側に腰をおろし、ため息をついた。

「……よくあることだわ」

表に出すことのできない憤り、口惜しさを目の色いっぱいにたたえ、それでもは静かな声でそう言ったきりだった。

たまらなくなった。

忍としての修行を積むためにこの町を離れているあいだ、文次郎の目の届かないあいだに、

がこんな目に遭っているなどとは彼は想像もしていなかった。

ただひたすらに耐え、こみ上げる感情のすべてを飲み込み押し殺すことを覚えて。

微笑むことなど忘れてしまっても詮無いことだ。

それを──それを、招いたのは、俺だ。

文次郎はの隣に腰掛け、刀を傍らに置くと、俯いたままのを抱き寄せた。

「……すまん」

は何も言わない。

「俺があのとき、もっとお前のことを気にかけていたら……」

「……今言っても、どうしようもないことよ」

いいの、気にしないで、文次郎のせいじゃないから、は小さな声でそう言った。

精一杯の強がりだということが、低く震えるその声から痛いほど文次郎に伝わってくる。

今言ってもどうしようもないこと。

あのときたかだか一年生の忍たまでしかなかった文次郎には、わからなかったこと。

過去は塗り替えようがない。

俺は今、に何をしてやれる。

考えて、思いついたことはたったひとつだった。

文次郎はを抱きしめる腕に、そっと力を込めた。

じっとりとした暑さが、お互いの身体を熱にひたしていく。

の身体がこんなにもたおやかで、こんなにもやわらかであることを文次郎は知らなかった。

こんな状況でなければ、よこしまな想像のひとつもはたらかせてひとりで気まずかったかもしれない。

はじっと抱きしめられたままでぴくりとも動かなかった。

「……怒ったっていいんだぞ」

八つ当たるべき相手は目の前にいる、とは、文次郎は言えなかった。

気にするなと、口先だけでも文次郎にそう言ってくれたは、文次郎に感情を晴らすすべを求めているわけではない。

「耐えるばかりでは、苦しいだろう」

文次郎は腕をゆるめ、の顔を覗き込んだ。

貼り付いたような無表情はちらとも変わらないが、その瞬間、

みるみるうちにその目に涙がたまり、頬を流れ落ちた。

泣くのに声もあげず、嗚咽も漏らさない。

だから、苦しいから、我慢するなと言っているのに。

「すまない」

、すまない。

文次郎は何度も何度も、そうして謝った。

の気がそれで晴れるわけではないことも、その足の麻痺が消えてなくなるわけではないこともよくわかっていた。

思わずあの場に飛び出して、をかばい女達を脅したことがよかったのかどうかはわからない。

ただ、己のしたことがもたらした結果を、文次郎は初めて目の当たりにしたのである。

事故以来何度に会っても、は一言も文句を言わず、恨み言を言わず、文次郎を責めなかった。

かげでこんなにもつらい目に遭いながら、文次郎の前ではそんな素振りを一度も見せることをしなかった。

何を言っても今は言い訳や弁明になる気がして、文次郎はただひたすらすまないと謝ることを繰り返す。

気が済むまで泣かせてやることしか、今の文次郎にできることはなさそうだった。

ひとしきり泣いたあとで、は苦しそうに大きく息をついて、文次郎の肩にもたれかかった。

小さな声でありがとうと言われ、礼を言われることなどなにもしていない文次郎は居たたまれない気分になる。

その場の誤魔化しのように、文次郎は呟いた。

「……いいのか。お前をこんな目に遭わせているのは、結局俺だ。こんな男に嫁ぐのか」

は少し思案するように、身じろぎをする。

しばらくしてかすれた声が耳元で答えた。

「……文次郎がいちばん、気易いから」

初めて、が求婚を受け入れたいちばんシンプルな理由を聞いた気がした。

自分でもおかしいほど気持ちが高揚していくのがわかった。

涙にくれる女を腕に抱いて、似つかわしくないことはわかっていたがとどめようがない。

それが恋やら愛やらかはともかくとしても、は己をいちばん心許せるからと認めてくれた。

それなのに俺はまだ、己の感情がどこにあるのかを掴みきれずにいる──

の両親の言葉が耳の奥によみがえった。

文次郎が思っているほどは、はあの事故のことを気にしてはいないと言ったが、それは嘘だ。

文次郎のしたことが結果としてに与えた傷は、今なお深く刻まれたままを苦しめている。

償いたいと、彼はまた同じことを思った。

こんなにも真摯に考えているというのに、

それでもやっぱりを大切に思っているというのとは別だと言われてしまうだろうか。

思って文次郎はまた沈みそうになる考えをぐるりと巡らせた。

もう少し考えてみて──

文次郎はため息をついた。

己の気持ちがどこにあるのかをちゃんと己で知るまでは、

の前に正直な姿で立っていると胸を張っては言えないことになるのだろう。

卒業まではまだしばらくある。

いまだつかめない己の本意を、文次郎はとりあえず思考の海の中に逃がしてやった。

今大切なのは、のそばにただいてやることだけだと思った。