雪月花に結ぶ  秋休み・前編


忍術学園会計委員会の面々は委員長の言ったことをいまだに信じられないでいた。

もちろん、各学級予算に委員会予算、収支の記録と実残高の計算は一文のもれもなく合わなければ許されはしない。

けれど彼……潮江文次郎は言ったのである。

秋休みは休み日数を潰さずにちゃんと学園のカレンダー通り、

帰省なら帰省、居残りなら居残りで鍛練を積むなどしようではないかと。

秋休みといっても与えられる休みは夏や冬の長期休暇とは比較にならないほど短い。

農村出身の生徒達は刈り入れの時期の貴重な働き手としても期待されているから、

家の手伝いをしに帰省することを目的として設けられた休みなのである。

自主鍛錬の時間を多くほしいと願っているのだろうかと誰かが囁いたが、

いや、先輩は休みのあいだはご実家へ戻られるそうだぞと誰かが答える。

潮江先輩の御自宅も忙しい時期なのかなとまた誰かが首を傾げれば、

いや、潮江先輩のご実家は確か山ひとつ越えた先にある割と賑やかな町の真ん中と聞いている、

刈り入れや収穫は関係がないはずだと返る。

徹夜をしても休みを潰しても計算を合わせることが大事と無理をさせられるのが常であるというのに、

このところの潮江文次郎は少々不気味に思えるほど彼らに優しかった。

授業が修了したらすみやかに帰途につけるよう、決算はそれまでに余裕を持って終わらせておこうというのである。

それが難しそうな下級生達の帳簿は自ら目を通し計算を手伝う。

委員達にしてみればこの委員長と顔つきあわせて帳簿を睨むのはちょっと御遠慮願いたい状況ではあったものの、

一緒に計算するのであれば間違いを添削されて帳簿を突き返されたり怒鳴られたりするということは免れられるし、

なにより自分のやる作業負担が少し減る上、委員長の望んだ通りに早く終わる。

休みが削られずに済むというのは、理由はどうあれ委員達皆にとっても嬉しいことである。

その甲斐もあり休み前の最後の日には会計委員会の決算もすっかり片づき、

彼らは珍しくゆっくりと帰宅の支度を整え、休み中の手伝いの算段や遊びの予定に存分に思いを巡らせた。

「会計委員会のせいで休み中雨が降るなどしたらどうしてくれる、文次郎」

食堂の夕餉の席、仙蔵が冷ややかな目を向けてきたが、文次郎はお構いなしだった。

「卒業後の相談があるからな、休みはなるべく実家へ戻っておきたい。何がおかしい」

「鍛錬はァー? もんじィ」

「山のふもとの町だ、なんとでもなる」

へーえ、と小平太は納得したように頷いたものの、文次郎をじっと見つめる目にはまだ満たされない好奇心がありありと宿る。

長次が黙ったまま仕草で小平太を窘め、その向かいの席で留三郎が話を引き取った。

「武家だったか、潮江の家は? 武士になれとは言われないのか」

「いろいろな意味で放任主義の親だ、特になにか言われた覚えはない。そうだ、伊作」

「へっ? 僕?」

聞いているふりはしていたが実は完璧に話の外にいた伊作は、いきなり話題の矛先を向けられて狼狽えた。

「保健委員長に聞いておきたいことがある、まぁ、聞かずとも知れたことではあるが……」

「なにさ」

「五・六年も前に負ってすでに肌に定着してしまった傷のあとを、今になって消そうというのは無謀な話か?」

「……無謀っつーか、無理に決まっているじゃないか。何を今更?」

「やはりそうか。いや、いいんだ」

「変な文次郎。なに、ヤバイ傷でも見つけたの?」

「……お前がヤバイとか口走ると途端に聞こえが物騒になるな」

呆れたように文次郎はそう言い、まったくだと同席の皆が笑いを漏らした。

その軽口によって文次郎が巧妙に話をうやむやにしてしまったことに気がついたのは長次だけだったが、

彼は発言してまでそれを指摘して揚げ足をとろうなどとは露ほども考えはしなかった。

文次郎以外の友人五人は皆、秋休みを学園にとどまるという。

彼らといっときの別れを交わし、文次郎は実家へと向かった。

夏休みのあとから秋休みにかけて、文次郎は毎日のようにのことを考えた。

そしてに対する己のことを。

ほんのわずかながら自分に時間を与えてやったことで、確かに見えてくるものはあったようである。

早朝の鍛錬を終えて屋の前を通りがかったときのことを思い出し、

そのときの自分を客観的に判じようとつとめて彼はやっと知った。

客の男に言い寄られていたを見て、自分が覚えた感情がなんであるか。

(……情けねぇ。妬いただけじゃねぇか)

他の男に笑いかけるを見て、不愉快と思った。

事情を知らなかったのかもしれないが、の身体を気遣うことなく立ち話を続けようと迫る男に腹が立った。

しょっちゅう顔を合わせるでもないが、文次郎の知り得ない知人友人をもっていてもおかしい話ではない。

また、どこかの誰かがに想いを寄せているということもあったっておかしくないのである。

しかしが文次郎の知らない一面を持っているということが彼には面白くなかった。

幼なじみだろうが、夫婦だろうが、親子だろうが、

どんな関係にあってもお互いがお互いを完全に束縛する権利はないはずだ。

幼稚な独占欲を抱いたらしい自分を知って文次郎は少々己を恥じた。

恥というよりは照れに近いのかもしれない。

その独占欲がなにゆえ己の内にわき上がったのかと文次郎は考えをそこまで押し進めた。

考えるのは難しいことだったが、彼は苦心して先の先、果ての果てまで考えた。

思考の遠回りの末やっと辿り着いた結論は、己がを女ひとりとして認め、好いているらしいということ。

償うだとか、謝るだとか、責任をとるなどといった不純な理由を何もかもすべて取り払っても、

文次郎の意志はを嫁にほしいというところから動くことはなかった。

己が招いたあの事故のせいではと、せめて秋休みまでのあいだはそう考えることをつとめてやめるように心がけた。

様々な理由や建前や言い訳を除いて残ったのは、まじりけのない彼の感情ひとつのみである。

その感情は、たとえば言葉ではどうにも上手く説明することができそうもない理由を内包しつつ、

ひたすらに文次郎の思考回路に切実な想いを知らしめようとするばかりであった。

いかにも言い訳めいた前置きなどなくても文次郎はに笑顔を取り戻してほしいと心から願い、

責任云々などと並べ立てることをしなくても妻として娶りたいと望んでいる。

任務を終えて帰った先にが待っていてくれる、そう考えると文次郎の内心は幸福感で満たされる。

それでの両親が許しをくれるかどうかとなると少々自信には足りなかったが、

彼らの言わんとしたことを自分の内側にちゃんと見つけることができて、文次郎は安心していた。

照れてばつが悪くなるついでにもうひとつ自分に認めておくとするなら、

会計委員会をさっさと終わらせて休みを潰さぬよう配慮したのは進路相談のためでもなければ

委員会の後輩達のためでもない(己への言い訳に使ってすまんと少しは悪く思っている)、

夏休みのあいだに幼なじみから許嫁へと関係の変わった娘に会いたいがためだ。

恋に落ちると人は変わると言うがまったく、と考えたあとで文次郎はひとり赤くなる。

恋という単語がまずあまりにも己に似合わなくて、

その事実に切なくなるより先に笑ってしまいたくなるのがまた切ないわけである。

どんなときでも鍛錬だギンギーン! とばかり、文次郎は町へ続く道をひた走った。

急ぎたい理由をわざわざ頭の中で言葉に直しはしなかったが、ひとつくらいは誤魔化したままでもよかろうと、

彼は珍しく自分を甘えさせてやることにしたのだった。

秋の空は高々と抜けるように青く、浮かんだ薄い雲は風に混ぜ返されては複雑にかたちを変える。

町を眼下に見たとき、走り通しで疲れているはずの文次郎はその疲れをまず忘れ、また走り出した。

こんなにも必死になって屋ののれんをくぐったら、はきっとまたあの訝しい目を向け、

一体どうしたの、文次郎と問うのだろう。

この休みにもとのあいだには特に会う約束もない、急ぐ必要は本当はない。

ただ、時折が口にする、

文次郎に嫁いだあとでどうしたこうしたという身勝手な想像話は、聞いていて結構面白みもあるのである。

許嫁という名はお互いのあいだについたものの、その関係の実体は幼なじみのままであって、

どうかすると一年坊主と学園長の孫娘の組み合わせのほうが睦まじいのではないかとすら思うほどだ。

文次郎にしたところで、特に焦りも望みもあるわけではない。

これでは本当に子どもの恋だ。

忍のすべとして、例えば色事を使う必要が出てくることだってあるし、

閨の実習などというとんでもない授業もこれまでに何度もこなしているのだから、

すでに経験があり慣れているという意味で、

とのあいだをもっと深めていこうと思ったところで文次郎には難しいことではない。

ただ、そうやってことを性急に進めてしまうには、は文次郎にとって特別が過ぎる存在だった。

なにせ家族同然に育ってきたというだけで別格ではある。

それが今となっては未来の花嫁。

関係の名ばかりが先に立っていたが、時間をおいて恋心らしきものも追いついてきたようである。

のことは真実愛おしく大切に思っていて、今のところはその気持ちの大きさがなによりも勝る。

この年頃の青年になら否が応でもついて回るよこしまな欲求は、

今のところに対してわき上がってくる段階には達していないようであった。

屋の藍色ののれんは今日も健在である。

実家に帰るよりも先にこちらへ寄っていくというのが見る人によっては奇妙なことだろうが、

文次郎は構うことなくのれんを払い店の中へ一歩踏み入った。

「ま、文次郎くん」

「……どうも。秋休みで、帰省しました」

「そう、お疲れさまだったこと! を待ってやってちょうだい、もうすぐ帰ると思うから」

「……店にはいないんですか」

「ええ、ご近所までね、お遣いに出てもらっているのよ」

文次郎は夏休みにあった出来事を思いだした。

同じ町に住む暇な奥方達がよってたかって、の耳に届くように嫌味のあめあられを振りまいたのである。

情け容赦のない底意地悪い言葉には傷つき、文次郎の前で大粒の涙を流した。

そばで話を聞いていたからそのときは庇ってやることもできたが、今は大丈夫だろうか。

心配になり、文次郎は店先に荷を預けたままでが出かけたという先へ早足で向かった。

垣根や植木で仕切られた敷地にどっしりとした構えの家々が並ぶ区域を、

文次郎は鍛錬の成果とばかり常人には考えられないスピードで走り抜け、視線を巡らせたがは見つからない。

結局、家屋の並ぶ区域を丸々一周して表通りへ首を振り振り戻ってきたところ、

妙に御機嫌な道行きにあるの後ろ姿を見つけたのである。

!」

「あ……文次郎? 帰ってきたの」

「ああ、秋休みだ。なにをしてる、お前」

また何か嫌がらせでもあって帰りが遅くなったのかと彼はそれとなくあたりに目を配るが、

はふるふると首を横に振った。

「これ」

「あ?」

「見て」

は嬉しそうに己の足元を文次郎に示した。

普段ならばはむしろ自由に動かない足に劣等感を抱いているはずだろうに、

どうしたことかと彼は素直に視線を落とした。

「いいでしょう。新しく誂えたの」

「……ほー」

理由はわかったが目を白黒とさせる文次郎。

が示してみせたのは、まだ新しいと目に見えてわかる様子の草履である。

ただの編み細工ではなくあいだに色模様とりどりの布きれが混ぜてある。

これを見て察するに、特に道中トラブルがあったわけではない。

新しい草履で出歩くのを楽しみたくて、遣いの帰り道、は町の奥まで足を伸ばすことにしたのだろう。

「まったく、こっちは心配して散々探し回ったんだぞ」

「それは、ごめんなさいね」

口調は軽く、楽しそうである。

文次郎の目の前で、久しぶりにちいさな笑みを見せた。

この笑みがもっと満面に、自分のしたことによって浮かぶものなら。

文次郎はその考えを隠し、声にも顔にも出さなかった。

「帰るぞ。お袋殿も心配している」

「ねぇ文次郎。明日から、神社の秋の祭礼があるのよ。見に行きましょう?」

は文次郎の言葉に答えず、夢見心地で続けた。

新しい草履で出歩く機会があればなんでも歓迎したいところなのだろう。

「……気がのらんな……」

「たまにしか帰ってこないんだから、付き合ってくれてもいいじゃない。ひとりで行くのは寂しいもの」

ね、決まり、とはにっこりした。

望んでいた満面の笑みをここぞとばかり見せられてしまったら。

文次郎はたちまち言葉に詰まった。

(お前、反則だろ……)

そんな顔して頼まれたら、きかないわけにいかねぇじゃねぇか。

せめてもの仕返しにこれ見よがしにため息をつく。

文次郎にはそれ以上の抵抗ができそうもないのであった。



一方その頃の忍術学園。

いつものメンバーから目立ったひとりを欠いた六年生の委員長組は、

たかだか数日のことではあるが張り合いなく退屈な時間を過ごす秋休みを想像して、

今からうんざりとしていた。

ことに仙蔵の苛々具合は周りが見ていてヒヤリとさせられるレベルに達している。

悪巧みを考えついたところ、ちょうどよいところにいつもいる文次郎が此度に限っていないもので、

気分転換やストレス発散ができないと宣うのである。

仙蔵の言い様を端から聞いている分には大変な身勝手であることこの上ないのだが、

確かにフルメンバーが揃っての乱痴気騒ぎは他に比較のしようがないほど面白い。

それぞれがそれぞれなりに優秀な生徒であるのは間違いないが、

それと同じくらいの問題児とも認識されているという事実を、本人たちだけが知らない。

仙蔵閣下は今宵も御機嫌斜めの御様子だ。

いやにはりきって学園を出ていった文次郎の姿も少々彼の気に食わなかった。

だいたい、仙蔵の嫌がらせに対して彼のピンポイントを突いたリアクションができるのは文次郎くらいなのである。

彼がいなくなってその矛先はは組の二人にシフトしたが、失礼も甚だしく、仙蔵はそこに物足りなさを感じていた。

「……退屈だ。誰かなにか、私を楽しませてみせろ」

食堂のテーブルの下で長い足を組み、仙蔵はハァ、と悩ましげに息をついた。

皆がしらー、とした顔で仙蔵を見やる。

誰も答えはしなかったが、ひとり芝居に酔うかのごとく、仙蔵は続けた。

「大体あいつは一体どうしたというのだ。

 秋休みに実家に帰るなどいかにもあいつらしくない。

 なにが卒業後の相談だ、忍になる以外の選択肢があいつにあるわけがなかろうが。

 えい、くそ忌々しい!」

「素直に気になるといえばいいのに、仙蔵」

苦笑しながら言った伊作に、仙蔵はとりあえず睨みをきかせる。

文次郎の“うきうき”(と、伊作と小平太は称していた)には、もちろん皆が気付いている。

「秋休みなど十日あるかないかだぞ! まさか秋の祭礼に出向くための帰省でもあるまい!」

「え、もんじのとこ、祭あんの?」

ずっとテーブルに伏していた小平太が、ぴくりと反応した。

「山を少し登ったところに神社があるのだ。一度、一年だか二年だかのときに、実家を訪ねて通りがかった」

秋には毎年祭を行うらしいと仙蔵が言ったときすでに、小平太の秋休みの予定は必然的に決まり、

それに伴い全員が巻き込まれるという予定も決定してしまった。

「っしゃ、じゃあ決まりな、明日の午前中に出れば夕方には着くだろ?」

肝心の潮江家の予定など小平太の頭にはない。

委員長組の良心、留三郎が一応あまり意味のない突っ込みを入れた。

「オイオイ、本気か?」

「無論だ。良い考えではないか、小平太」

「だっしょー? 焼きソバ食って、わたあめ食って、射的やって、りんごあめ食って、ヨーヨー釣って、

 金魚すくって、川にリリースして、花火見て騒いで、夜中に墓で肝試しして、枕投げして、それから」

修学旅行か、という覇気のない突っ込みを最後に、良心すらも折れた。

伊作はオロオロとするばかりで反論できず、長次は例によってずっと黙ったままであったが、

ぼそりと本屋、と呟いたのがなんと決定打になってしまった。

「よし、では明日すぐに出発だ。そうと決まればぐずぐずしてはおれんな」

仙蔵が場をさっさとまとめると席を立つ。

唐突な決定にまだ戸惑い気味の顔もあったものの、

確かに秋空の下に人の少ない学園で退屈に時間を過ごすよりはずっと面白そうである。

最後には誰もがわくわくとした気持ちを抱き、翌日の出発が決まったのであった。



(祭礼か。……やっぱ、気が乗らねぇな……)

翌日早朝、いつものとおりに山の中で鍛錬を続けつつ、文次郎はそのことばかりに気をとられていた。

はきっと心の底から楽しみにしているのだろう。

その期待には応えてやりたいと思うし、二人で出かけるなどということは、たとえ地元の祭でも何年ぶりか知れない。

けれど文次郎はあまりその誘いを歓迎できなかった。

の足に消えぬ傷を負わせたあの出来事は、その祭礼が行われる神社でこそ起こったのである。

長い長い石段を、普通の人でも息を詰めてゆっくり時間をかけてのぼっていくのだ。

それを、足を痛めたがのぼるとなるとただごとでは済まない。

自分が付き合うのはいい。

に手を貸してやるのは自分の役目であると文次郎は思っている。

けれど、あの夜のことを、高みから落ち地面に叩きつけられる恐怖の記憶を、痛みを、至る今を、

は思ってつらくなったりはしないだろうか。

それが文次郎には心配だった。

(いや……違うか)

が心配というのも嘘ではない。

けれど、それよりもが苦しい記憶を思い返すことで、自分にやってくる責めが恐いのかもしれない。

また自分のことばかりと、文次郎は少し重い気持ちを抱く。

忘れるな、つらいのはだ、俺は責められて当然の立場だ。

なのに己の意志はその保身ばかり、弁護ばかりを重ねようとしている。

いい加減、自分のしたことのすべてを認めて──の味わった苦しみをほんの少しでも、知ればいい。

なのに、足掻いて藻掻いて、忘れ逃れようとする。

都合のいい生き物だと、仙蔵あたりならスパッと斬って捨ててくれようか。

仙蔵の手の込んだ嫌がらせには耐え難いものもないでもない文次郎だが、

五年と半少々の付き合いで慣れてしまった感は否めない。

けれど、己が断ち切りたくて断ち切れぬものを、

あいつなら躊躇わず痛みも感じないほどの刹那に惜しげなく切り落としてくれそうだ。

それが、文次郎が仙蔵に対して持っている信頼である。

親友とか戦友とか、そう呼ぶには気恥ずかしいが。

仙蔵と、なんだかんだとつるんでいる友人達を思い返し、文次郎はふっと笑った。

奴らには、のことを話したほうがいいだろうか。

思って即座に文次郎は否定した。

否、絶対からかわれて酷い目を見て終わるに決まっている。

この手の話題はタイミングが重要だ。

しかし──それも、学園に戻ってからの話である。

とりあえず、鍛錬を終えたら屋へ寄って、の顔を見てから帰ろう。

文次郎はそう決めて、意識をきっぱりと切り替えると鍛錬へと集中していった。



委員長組五人は突っ走る小平太を先頭に順調に道行きを制覇していた。

夕方に着くという予想がかなり早まりそうである。

そもそも、これもまたはりきった小平太がひどく早い時間に目を覚まし、皆を起こしてまわったせいである。

いつもより早い時間に食事を摂り、支度も済んでしまい、

学園でやることのなくなった彼らは早々に出発することにした。

時間があるのだからゆっくりといけばよいものを、いつの間にか競い合いになっていたりして

あっと言う間に道のりが埋まってしまったのである。

途中、一軒のうどん屋で早めの昼食を摂り、腹ごなしにとまたひょいひょい走り始め、

気が付けば町を眼下に見渡すばかりとなった。

まだまだ日の高い時間である。

目的地が目の前に見えたことで一同は少し落ち着いたのか、下ってゆく道をてくてく歩きながら、

文次郎の驚いた顔など思い浮かべてほくそ笑んだ。

山の斜面の木々の隙間には神社に続く階段がちらちらと見え、祭ののぼりなどが立てられている。

町の空気もどことなく浮ついた様子で、この夜を楽しみに待つものの多さが伺えた。

「ねぇ、一応アポなしでお邪魔するんだしさ、なんかおみやげでも持っていこうよ」

ちょうどいいところに菓子屋が見えたと、伊作が藍色ののれんを下げた店を指さした。

屋という屋号が彼らの目に留まる。

ときどき文次郎から振る舞われることのある、実に美味なる菓子が屋製であったことを皆が覚えていた。

味の保証はそれでされたわけである。

文次郎には身近な味なのかもしれないが、外れではなかろう。

彼らは問題児ではあるかもしれないが、非常識ではない。

その足はぞろぞろと菓子屋へ行く先を変えた。



鍛錬を終えて屋へ寄った文次郎は、がまたも外出中であると聞いて呆れた息をついた。

店の遣いで買い物に出たそうだが、恐らく新しい草履で出歩きたい気持ちが先に立っただけであろう。

過保護は承知で、彼はを探して町中を走り回っていた。

やがて、細い路地から腕に花をいっぱい抱えて出てきたを彼は見つけた。

! お前、なんでいつも散々探し回った最後の最後で出てくるんだ」

「知らないわ、そんなこと。文次郎の要領が悪いのでしょ」

「減らず口を……」

苛立ちに青筋が浮いてきそうな文次郎だったが、

若い娘が花束を抱いてそこにいるというだけでなにか許せてしまうものがあるという不思議である。

文次郎の苛立ちや呆れは、が口元で少し笑っただけで蒸発して消えてしまった。

「そんなに愉快か、新しい草履で歩くのが」

「とっても愉快よ、新しい草履で歩くのは。わからないのね文次郎、つまらないひと」

「お前な……」

言いながら、文次郎はの抱えた花を半分ほどは引き受けると並んで歩き出した。

「今日の夜が楽しみ! ねぇ、予定なんて入れていないでしょうね」

「……お前が強引に予定をつくってくれやがったからな」

「ふふ、よかった」

花束に顔を埋めるように、は俯き気味に微笑んだ。

そうして笑っていてくれるというのなら、多少無茶な望みも叶えてやろうと文次郎は思う。

けれど今宵に限ってはあまりいい予感がない。

己にとって覚えのよくない場所であるということも要因として大きいだろうが、

それともまた違った嫌な予感があるのである。

あの石段をを連れてどうのぼるかと考えただけで、薄々想像はついてしまう。

文次郎と同じ歩調でのぼることができないことをは愉快と思わないたちであるし、

手を貸そうとか背負ってやろうなどと言おうものなら、たちまちその自尊心を傷つける。

気位の高い女だからと、文次郎は口にはとても出せないがそう思った。

自分ではどうしようもないことであるとわかっていても、我慢ができないことがあるのだ。

は文次郎と対等でいたいのである。

普通に接していて置いていかれるのも嫌なら、手を貸そうと言われるのも嫌なのだ。

当たり前に文次郎と同じ速度で歩くことができる、

それは己の足では無理なこととはわかりきっていながらも強く望んでいるのである。

けれどそんな思いを決して表に出そうとしないから、文次郎は悟っても気付かなかった振りをする。

手を貸すのはにとっては余計なお世話だ。

だから、がひとりでできることには彼は絶対に手を出さないと決めていた。

そうしてがことをひとりでやり遂げるまでには相当な時間がかかることもあるが、それには知らぬふりをする。

けれど、それにはあの石段は高すぎるハードルでありはしないか。

文次郎はこの夜求められるであろう自分の立ち位置を決めかねていた。

それに、なんだか……

彼には今日、払っても振り切れないもうひとつの嫌な予感があった。

腹の中がぐるぐると据わりの悪い感じがするのである。

悪いものを食って消化不良を起こしたような……そんなたとえがよく似合う。

しかしこの嫌な予感、妙に馴染んだ感もある。

いったいなんだと訝しく思いながらも、に察せられても面倒なので彼は顔に出さないようつとめた。

表通りを避け、裏道側の通用口から二人は屋へと入った。

祭礼に合わせて、屋でも花を飾って世話になっている地元の神様を祀るという、そのための買い出しだったらしい。

花をより分け、鋏で余計な葉や枝を落としていると、急に店のおもてが賑やかになる。

「あら、お客さんがいっぱいみたい」

手伝わなくちゃと、は危なっかしく立ち上がり、店のほうへ行こうとする。

文次郎は少し遅れ慌てて立ち上がると、に倣って店のほうへ出ようとした。

嫌な予感がその瞬間に胸を突いた。

なにかマズイ。

今出ていってはいけない気がする──文次郎の足が中途半端に止まる。

がいらっしゃいませと客に挨拶したのが聞こえた。

、厨のお父さんの様子を見てきて頂戴、焼きたてが出せる頃のはずだから」

「はい」

接客をつとめる母親の言葉に素直に従い、はくるりととんぼ返りをして戻ってくるらしい。

文次郎ははっとし、首をぶるぶると振ると嫌な予感は切り捨てて店へ顔を出した。

「立て込んでいるのか? 俺も手伝って……」

途端、ぴしりと文次郎は固まった。

「ああーっ!! もんじ見っけぇぇぇーっ!!」

びし、と、客のひとりが文次郎を指さした。

文次郎は二の句も継げない。

がオロオロと視線を彷徨わせたあと、控えめに文次郎に問うた。

「……お知り合い? 文次郎」

「同じ学校のダチなんだ!! あれ、なに、あんたこそもんじと知り合い?」

文次郎のかわりに答え、更に問いを重ねたのは、

常より遠慮のない口調が羨ましいほど天然で身に付いている小平太である。

その後ろにずらと居並ぶ、学園では見慣れた顔たち。

「こっ……小平太、おまえら、なんでここに……!」

「それはこちらのセリフだ、文次郎。なぜお前がここにいる」

小平太の後ろに控えていた仙蔵が一歩進み出た。

表情全体の印象こそ意外そうにしているが、その目は獲物を見つけた獣のようにらんらんと光っている。

(嫌な予感とはこのことだったか……ッ)

文次郎は思わずぎりっと歯噛みした。

当たらなくともよいというのに、悪い予感というやつは。

かなり遅れたテンポで、は小平太に幼なじみなのですと答えた。

「おさななななー!?」

「小平太、言えてない、言えてない」

伊作が後ろから突っ込むのに、小平太はあはは、噛んだと笑う。

「へぇーっ、屋って、君んち?」

「はい。と申します」

「へぇーっ」

なにか新しいことを聞くたびに小平太は感嘆の声を漏らした。

端で聞いている五人には、それがともすれば文次郎をからかうための大袈裟な反応にも聞こえる。

このという少女を目の前にすれば、文次郎の“うきうき”の本当の理由など聞かなくても知れる。

文次郎もそれが皆にばれたとわかるから、焦りの気配もだだ流しのまま隙だらけで目の前にいるのである。

小平太の感嘆の声が、文次郎には冷やかしに聞こえていることだろう。

しかし言っている小平太自身には恐らく作為など塵ほどもない。

天然ゆえ、遠慮なくずばずば文次郎を責め立てる小平太の様子に、仙蔵は内心でぐっと親指を立てるのであった。

「文次郎のところへ遊びにいらしたのですか」

「うん、祭があるって聞いたからさー。なぁ、もんじ」

「だからお前ら、なんでここにいるんだよつってんだ……」

「だから、祭があるんだろー? 祭といえばさ、焼きソバだろ、わたあめだろ、射的だろ、りんごあめだろ……」

「じゃねぇっつの! オイ!」

まともに受け答えのできそうなは組二人のほうへ文次郎は厳しい視線を向けたのだが、

伊作が両手を半端にホールド・アップした格好で あっ、ごめんねっ、と言ったきり笑うばかりだった。

「実家に戻ったとはいえ鍛錬もひとり山の中、収穫の秋に家業が忙しいでもあるまい、

 退屈を紛らわしてやろうとわざわざ訪ねたのではないか、なぁ、文次郎。だがこのように」

仙蔵は哀愁をたっぷり交えた大袈裟な身振り手振りでそう言い、いったん言葉を切るとを示す。

「愛らしい幼なじみが相手をしてくれているというのなら退屈もなにもなかろうなぁ?

 私たちの来たのはただの無駄だったというわけか、そう……か……」

帰るぞ皆、と仙蔵は踵を返そうとする。

大げさな演技に文次郎は正直なところ少し引いてしまうが、

仙蔵と初対面のの目には友達思いの好青年というふうに映ったようであった。

「せっかく訪ねてくれたのに、文次郎、学校ではお友達にそんなに冷たいの、あなた」

「お前、こいつらをよく知らんからそういうことが言えンだよ!」

「でも、即日追い返すような真似をするなら、ただの薄情よ。がっかりするわ」

「……! ちょ、待て、、あのな……」

「私、厨の様子、見てきます」

は文次郎に構わずに店の奥へ戻ろうとし、文次郎を脇へよけようとして少しよろめいた。

それに当たり前のように文次郎は手を貸し、恨みがましい視線で悪友達を振り返ると、

今に見ていやがれ、覚えていろとでも言いたそうにしつつ、と一緒に奥へ入っていった。

それを、夫人は少々呆れ顔で見ていたが、新たな客が店頭に顔を出したのを見つけてそちらへ急いだ。

すれ違い際、五人に座って待っていて頂戴なと笑いかけ、長椅子を示すのも忘れない。

五人は礼を返しつつ、仲良く並んでそこへ座した。

しばらく皆は黙っていたが、伊作がぼそりと、辛うじても聞き取れるかどうかというような小声で言った。

「……文次郎が言っていたの、彼女のことだったんだね」

皆が一様に頷いた。

が店の奥に入ろうとして歩き出し、よろめいたときに着物の裾が少し乱れ、

膝下からわずかに古い傷が覗いたのだ。

“五・六年も前に負ってすでに肌に定着してしまった傷のあとを、今になって消そうというのは無謀な話か?”

わざわざ問うのがばかばかしく思えるほど、伊作の答えは当たり前のことだっただろうに、

文次郎は確かめずにいられなかったのだろう。

文次郎の秋休み以前からの様子を見ていれば、

彼がのことを恐らく幼なじみという以上に想っているらしいことはよくわかる。

会計委員の下級生達が、潮江先輩に一体なにがあったのでしょうと次々相談に来たことを彼らは忘れられない。

文次郎の変化はどうやら夏休み以降であったから、

夏休みになにか心境が変化するような出来事があったのだろうと彼らは想像していた。

あの文次郎に色恋沙汰という可能性を考えるのはギャグ以上のなにものでもなかったのだが、

ここへきて現実を目の前にすると無神経に笑い飛ばすばかりではいられなさそうだった。

文次郎は幼なじみの少女を内から外から、それとなく思いやっているのだろう。

よろめいたに手を貸す彼の動作はごくなにげなく、当たり前そうだった。

「文次郎、あの子に会いたかったんだよな」

小平太が苦笑いをし、素直になっときゃいいのにさぁ、と大らかに言う。

「僕ら、邪魔じゃないかな?」

一応遠慮らしいことを伊作は言うが、それを聞き留めていたらしい夫人にくすくすと笑われてしまった。

「いいんですよ、あの子たち、まだそんなに艶っぽい仲じゃあないんですからね。

 よければ、うちのとも、親しくしてやってくださいな」

夫人に、彼らは揃って大変よいお返事をした。

「じゃあ、祭もみんなで行けばいいかな? でもさ、文次郎は、デートのつもりだったかもしれないね」

やっぱ悪くないかなぁと、気遣いのあることが言えるのは伊作だけのようだった。

ずっと黙っているふたり、長次はただこの町の本屋へと思いを馳せているばかりである。

一方の留三郎は仙蔵を横目で見ながらぼんやりと考えていた。

潮江の色恋沙汰をこいつがネタにしないわけがない、やれやれ、またストッパー役か。

五人五様に思いを巡らせる、日はしずしずと傾いてゆく。

祭の幕開けまではあと数刻である。