雪月花に結ぶ 秋休み・中編
悪友達の急な来訪があったとはいえ、が楽しみにしていた祭の予定を流すつもりは文次郎にはなかった。
けれどは厨で菓子を包みながら、せっかく遠いところを来てくれた友達を放っておくなんてと、
お説教モードに入ってしまっている。
こうなると昔から文次郎はただしゅんと話を聞くに徹するしかなくなってしまうのだが、
今度ばかりはを優先する意志を曲げるつもりはなかった。
だから店に戻ったとき、伊作と小平太がも一緒に祭にと言ったときは少し安心し、
また少しは落胆したような気持ちを覚えた。
確かに、訪ねてくれた彼らを放っておくのも、相手が相手とはいえ文次郎には気が引けるのであった。
誰の方向も向くべきところがあって、その真中に立たされ文次郎は迷っていたが、
皆で一緒くたになることがとりあえずつかず離れずの解決法らしい。
囃子の始まる前には迎えにくるからなと文次郎は言い置き、
友人達を潮江の家に案内するのに一度帰宅することにした。
が不機嫌になっては困ると文次郎は内心心配していたが、
が楽しそうに笑って待っているからと言ったのを見ると、うって変わって安心してしまった。
「悪いね、文次郎、ちゃんとデートのつもりだったんじゃない?」
「っせぇ! 突っ込むな!!」
「なんも怒られるようなこと言ってないじゃん、僕」
本心から申し訳ない気持ちも持っている伊作は、責めたてられ不満そうに口をとがらせたが、
の足の傷のことを思い出し、少し神妙そうに続けた。
「……この間言っていたの、彼女の傷のことだったんだね?」
「……ああ」
「五・六年前か……十歳前後。結構大きな傷みたいだね」
「ああ」
「事故でも?」
伊作は首を傾げて見せた。
伊作の言葉はときどきカウンセリングのような誘導になっていくことがある。
彼の語調や声色がまたなにか誘うようなものを秘めているようで、
安心しきってぽろりと核心をこぼしてしまうものも少なくないと聞く。
文次郎があまり話したくない、という顔をしているのは聞いている皆にもわかったが、
彼は少し躊躇って見せたあと、口を開いた。
「……あの傷は、俺が原因でできた」
さすがに伊作もはっと口を噤んだ。
踏み込むべきでない深みまで入ってしまったことを彼はすぐさま悔いる顔をした。
「あ、そ……ごめん、変なこと聞いた」
「別に」
文次郎は張り合いのないほど素っ気なくそう言った。
黙ったまま一行は文次郎について歩いていたが、ふと彼が足を止めたのに従って皆が立ち止まる。
文次郎が山の斜面を指さしたので、彼らはそちらを見やった。
「あれが、祭りの行われる神社だ。鳥居が見えるだろう」
「おーっ、出店も見える!」
小平太が調子づいた。
「花火もやるぞ、天気と風の具合がよければな。……あの石段、」
小平太に答えてやり、文次郎は石段のほうへ視線を巡らした。
「長くて、その分高さもある。……一年時の夏休み、俺は家へ帰省していて……
一緒に遊んでいたはあの石段の、ほとんど天辺からいちばん下まで転落した。
俺が気を配れなかったばかりに、足に大けがを負い、いまだに麻痺が残っている。
そのせいであいつはいろいろ居心地の悪い思いもさせられている……理不尽にな」
石段のいちばん上の段を見上げ、彼らは絶句した。
よく命があったものだと誰もが思った。
無言を返事と解釈し、文次郎はまたひとり先に立って歩き出した。
「……春、学園を卒業したら、あいつは俺がもらい受ける」
「はぁーッ!? まじで!? 勿体なー!!」
小平太が相変わらず無遠慮に叫んだ。
留三郎も我にかえって問う。
「忍者しながらか? 潮江」
「ああ。ほとんど一緒に暮らせはしないが」
「……可哀相だろ」
「知った口をきくな。俺だって、」
わかっている、と文次郎は少し苦しそうに言った。
普段ならばあわや喧嘩かというところだが、留三郎も話の内容が内容なだけに、思いとどまったようだった。
そのままなんだか会話も続かず、黙ったままで一行は潮江家へと辿り着いた。
唐突な友人達の訪問に、けれど潮江家の面々は歓迎の様子であった。
中に通され、茶を出され、皆がくつろいできたあたりで文次郎がぼそりと呟いた。
「先に、頼んでおくが、あいつのこと」
「ちゃんのこと?」
文次郎は頷いた。
「頼まれないうちは手を貸したり妙に気を遣ったりしないでやってくれ。
あいつは、……全部自分でできると思っているし、大体のことはそうしてきている……時間は、かかるが」
誰も一言も答えない。
それが実は難しいことであるのを誰もが承知しているのである。
「普通にしていてくれ。怪我人を相手にしているなどと、間違っても思わないでくれ。
俺はあいつの速度に付き合うが、先に行けと言うから、そうしたら先に行ってくれ。遠慮は無用だ」
「んんー、でもさぁ、もんじ……」
「頼む、小平太」
「いや、違くて。花火くらいは一緒に見ようって」
「…… そうか。」
「なんだよ、意外そうな顔だな」
文次郎は少し呆気にとられたまま、答えた。
「いや……実際、意外と思った。言うまでもなかったか」
文次郎は口の端で静かに笑った。
「……べた惚れだな?」
ぼそりと呟いた仙蔵に、文次郎はわかりやすくかっと赤くなり、爪を剥いた猫のような反応を見せた。
つかみ合いに近い喧嘩になっていく二人を見、ああ、なんだか覚えのある光景と、見守る四人は思う。
仙蔵が内心で、やっと手応えのあるリアクションを得たと悦んでいることが、手に取るようにわかるのであった。
日が傾くまでの時間は、彼らが想定した以上に短く感じられた。
気付いた頃には囃子の音が聞こえ始めており、に迎えに行くと約束した頃合いなどとっくのとうに過ぎていた。
六人は慌てて財布だけひっつかむと潮江の家を出、そう距離もない屋まで疾走した。
は店先に花を飾る作業をしながら彼らの迎えを待っていたようだが、
その顔がなんだかつまらなさそうなことに気付くなり、文次郎の背にヒヤリとしたものが流れた。
「! すまん、遅れた」
「……お囃子、始まってるじゃない」
「すまん」
軽く息を弾ませながら、文次郎は不機嫌そうな顔でに謝った。
不機嫌そうな顔、にも種類があろうが、文次郎なりに申し訳のない気持ちでいるときの顔であるとには見分けがつく。
まぁ、いいけれどとは呟いた。
文次郎に一歩遅れて着いてきた五人の友人達も、それぞれ一言ずつくらいは謝りの言葉を口にした。
そのまま、仙蔵が何かに気が付いたような顔で更に一歩、歩み寄った。
「さん。髪を結い変えたのか」
「え?」
「髪」
仙蔵がにこっと笑って、自分の頭を指さして見せた。
は少し驚いたように目を瞠り、文次郎はこいつはなにを言い出すのかと言いたげに友人に視線をやった。
「ええ、さっき」
「ああ、やはり。飾りも違うから」
「あー、ほんとだ! かわいー」
仙蔵の言うのにどれどれと寄ってきた小平太が、なんの照らいもなくさらりと誉めた。
ぽっと赤くなるを横目に見て、文次郎は少々動揺する。
(ちょ、ちょっと待て、……)
そんな軽い言葉に動くような女だったか、お前は。
しかし、ここ数年のに関しては見知らぬ顔のほうが多いはずの文次郎である。
突っ込みも入れられず、彼は場にちょうどいい言葉を探せずに黙ったまま突っ立っているばかりだ。
「着物もさっきと違う、秋柄だね。かさね目の色あわせがすごく粋。センスがいいんだ」
畳みかけるように続いた伊作の褒め言葉があまり具体的だったもので、
は今度は全然、そんなことと消え入りそうな声で呟き、首を振り振り俯いた。
耳まで真っ赤になっているのを見て、やっぱり文次郎は複雑な気持ちだ。
まさかお前らまで言わんだろうと、微妙な期待を込めてちらと留三郎と長次を見やるが、
途端に期待はばっさり、裏切られてしまった。
「よく見たら、草履も色が入ってるのか。こんなに凝った細工があるんだな」
「……良く、似合う」
落雷にでもあったような衝撃が文次郎を脳天から貫いた。
(ちょ、ちょっと待て、お前ら……)
全員に置いてけぼりを食らったような心地である。
いつの間にこんなふうに、任務も授業も絡まない場で女をべた褒めできるようになったのか。
その効果は茹で上がったように真っ赤なの様子を見ていれば一目瞭然というものだ。
仙蔵がしてやったりと言いたげににやりと笑い、文次郎の背をばしんと叩く。
「馬鹿! お前がいちばんに気付いて声をかけるべき立場ではないのか、んん?」
「そーだそーだ! 祝言あげるんだろー!」
小平太が声量もはばからずはやし立てる。
は心底困った顔を上げ、助けを求めるような目で文次郎を見上げた。
「も、もんじろ、何の話をしたの……」
「べ、別にどうでもねぇよ!!」
すげぇ、夫婦で照れてると、一同に微笑ましい笑いが起こる。
「いきなり押しかけて申し訳なかった、さん。ああ、今更だが、そう呼んでも?」
仙蔵がやっと大笑いを落ち着かせ、目に涙すら浮かべながら聞くと、は小さくうんと頷いた。
「さん、邪魔になるといけないから、我々は先に行っているとしますよ。
文次郎とふたりでゆっくり来たらいい、なぁ、文次郎? そもそもはそういう約束だったのだろう」
「よ、よけいな気回しするな、仙蔵!」
文次郎が仙蔵に食ってかかったが、
なにかもの言いたげな仙蔵の視線と目が合ってしまうとなにも言い返せなくなってしまった。
結局文次郎は悔しそうに、引き掴んでいた仙蔵の襟元をはなした。
「んじゃ、あとで合流しよーぜ! 花火くらいは一緒に、なー!」
歩き出した一行の最後尾についた小平太が、無邪気にそう叫びながら振り返る。
が小さく彼らに手を振り返し、ほっと息をついた。
一方の文次郎はその横でがくりと肩を落とす。
「……やっぱり、忍者の人って、よく観察しているのね。びっくりした」
「なんだ“忍者の人”って……」
覇気のない突っ込みを返しつつ、文次郎は大した運動もしないうちに体力を削ってしまったとげんなりした。
「……じゃあ、行くか、ぼちぼち」
文次郎は先に一歩を歩き出し、が続くのを待って振り返った。
の歩くペースは心得ている。
並んでゆっくりと歩きながら、ぽつりとが呟いた。
「でも、よかった」
「なにが」
「私、歩くの遅いから」
祭を楽しみにしている皆を焦らしてしまうからと、その声にはそこまでの意味がこもっていた。
文次郎ははっとしてを見下ろすが、はそう気にしたふうでもなく微笑んだ。
「ごめんね、文次郎は、付き合ってね」
「……当たり前だ」
文次郎はなにか誤魔化すようにごほ、とわざとらしくひとつ咳払いをした。
ふと、思い当たったひとつの覚え。
先程の仙蔵の視線は、からかい以外の意味を思いきり含んでいた。
友人達皆がそれに従い、小平太が“花火くらいは一緒に”と言い置いたことを思えば、
全員が仙蔵の思惑に気が付いていたということになろう。
恐らく、仙蔵はからかいを装って、最初から別行動をとれる境遇を実に巧妙に作り出したのだ。
先に行けと言うからと文次郎は皆に断っていたが、
ただそれを口にするのはには不自然に聞こえてしまう可能性が高かった。
二人きりでいたいからなどという、文次郎には口が裂けてもまず言えない理由を口にしない限り、
別行動の理由はの足にばかりかかってくるのである。
の事情を思い、文次郎の性格を理解し、下手をすれば気が付かないかもしれないほどさりげなく、
彼らは二人を気遣おうとしたのだろう。
性格の細かいことこのうえないが、文次郎にはお節介とは思えなかった。
はもちろん、“忍者の人”たちの企みにはチラとも気が付いていない。
ありがたいと思った。
これではまわりに気を遣わないで済むのだ。
祭への期待に、満面の笑みを浮かべている。
こんなふうにが楽しそうにしている日が続けばいいと、彼は願った。
けれど。
留三郎が可哀相だと言ってきたのを思い出す。
一緒になっても、毎日そばにいてやれるわけでは決してないのだ。
けれど、忍になることを、諦めることは彼には出来ない。
譲れないものに挟まれているときにどうしたらいいかなんて、授業では習わない。
教えるまでもないことなのだろうと彼は思う。
任務を優先するということ、それが絶対である世界だ。
そこに誰もが疑問は持っているだろうが、割り切れずに考え込んでしまうところが己の未熟である。
(未熟、といえば……)
文次郎はひとり気まずく、そっとを見下ろした。
別に、気が付かなかったわけではなかった。
の外出を増やし、文次郎をヤキモキとさせている元凶のひとつであるあの草履、
すっきりと結い直し、小さな細工の簪をいくつか重ねてつけている髪、
少し枯れた色柄の着物の内側に相当大胆な色をほんの少しばかり覗かせていること、
うっすらと化粧をして、ごく淡い色だが紅をさしていること、
懐にでも香り袋を忍ばせているらしく、店先でいじっていた花とは違う香りが薄く漂っていること。
全部気が付いていた。
忍のわざの未熟ゆえ、文次郎が気が付けなかったわけではない。
無理矢理言うなら、女の扱いの未熟ゆえである。
相手が幼なじみということもかなり影響してはいるだろうが、
ちいさな変化など見つけてもわざわざ口に出して誉めるほどではないと思ってしまった。
思うまでもなくそういうものだと認識していたのに、は言われるたびに嬉しそうだった。
考えを改める必要がありそうだと文次郎は少々反省もしたのだが、
先程あれだけ友人達が言葉を重ねていったあとで己が今何か言うのは手遅れというものであるし、
それでなくてもとてもさらりと言えるセリフではない。
(言えねぇっつーの、馬鹿野郎)
機会を逃したゆえ、また己の性格ゆえ。
文次郎は相手もなく、逆恨みをした。
二人はやっと石段のふもとに辿り着いた。
神社の近辺は賑やかでいかにも祭の空気らしく人も集まっており、
薄暗い中に灯る赤い光がちらちらと揺れるのがまるで誘いをかけているかのようである。
ちらほらと人の行き交う中、文次郎ととは特に意識もせず、当たり前のように手を繋いだ。
一段上を文次郎が歩き、手を引かれてが続く。
しばらくそのまま、の足につらくないよう歩調を合わせ、文次郎はゆっくり石段をのぼった。
あとからやって来た人たちが横を通り、二人を追い抜いて先へ上がっていく。
近所の子どもたちが大はしゃぎで駆け上がるのを文次郎は見咎め、
おい、あんまりはしゃぐな、転ぶぞと叫んだが聞く耳は持たれなかったようであった。
「近所の口うるせぇ親父扱いだよな、くそ」
「そりゃあそうよ、五歳も六歳も上なら、あの子たちから見たらあなたも私も立派な大人よ」
「そうだな」
なんだか腑に落ちないと思いながら、文次郎は前を向き直った。
が静かな声で呟いたのが聞こえた。
「……大丈夫よ、文次郎。今日はお祭りよ、大人も多く出てきているし」
文次郎はまたを見下ろした。
は俯き、文次郎と目を合わせようとはしてこない。
「あんなこと、そうそう起こったりしないわ」
虚を突かれ、文次郎は石段を登る足を思わずとめた。
あんなこと──あの事故のことである。
はいかにも困ったと言いたげな顔で、文次郎をチラと見上げた。
「……やっぱり、気にしてる」
「、……俺は」
「いいの、文次郎」
は切実そうに告げた。
「文次郎と同じ速度で歩けなくても、よろよろとしか立っていられなくても、人にいろいろ言われてもいいの。
私はちっとも気になんかしないわ」
「……嘘だ」
「嘘じゃない。私、恨んでなんかない。償って欲しいなんて思わない。謝って欲しいとも思ってない。文次郎」
呼ばれ、彼は聞き返すことが出来なかった。
まだ半分ほどは、の言っていることが嘘だと思えた。
傷つけられて涙を流すことだってあったというのに、気にしていないわけでは決してないはずだ。
「文次郎が気に病むことじゃあないはずよ。子どもがはしゃいだ挙げ句の事故よ、よくあることだわ」
「よくあることなんかじゃない」
俺がもう少し気をつけていれば、あとをついてくるを振り返ってやっていれば、手を引いてやれば、あるいは。
あの事故以来の数年間、何度苛まれたかしれない思いが今また文次郎を襲った。
「俺のせいだ」
このうえなくきっぱりと文次郎はそう言いきった。
はそれを聞き、不愉快そうに眉根を寄せた。
「……ねぇ、文次郎」
息を切らしながらは足をかけていた一段にのぼり、足を揃え、そのまま立ち止まった。
「ずっと言おうと思っていたの」
「なんだ」
「考えたの」
「……なにを」
「私」
は苦しそうに息を吐き、のぼってきた石段をちらと振り返った。
終着まではあとわずか。
はまた文次郎を見上げた。
たった一段・二段ほどの高低差が、驚くほど開いていた。
見上げてくるの視線は潔く思えるほどまっすぐで、
その内心には恐らく迷いなど少しもないのだろうと文次郎は思う。
だから、はっきり告げられたその言葉を、彼はすぐには信じることができなかった。
「わたしたち。夫婦になるの、やめたほうがいいと思う」
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