雪月花に結ぶ 秋休み・後編
すでに祭の会場を一周して石段の近くまで戻りつつあった五人は、
やっと文次郎ととが境内に到着したのを今まさに見つけたところであった。
声をかけようとしたところ、がつまずきそうになってよろけ、文次郎に抱き留められるシーンを目撃する。
「う わぁ」
伊作が素直に赤くなる。
よりにもよって文次郎が目の前でこんな恋愛劇を演じるとは誰が想像しただろうか。
恐らく、よろけたに文次郎が手を貸したり、抱き留めたりするのは、二人のあいだでは当たり前の習慣なのだろう。
なにか二言三言交わしたあと、文次郎はを引っぱるようにして敷地の端のほうへつれていき、
四角い御影石の置物に座らせると自分はその足元に跪いた。
今や五人は息を殺して急展開を待ち望む観客である。
文次郎はの片足首をそっと持ち上げて膝の上に載せ、色の入った草履の結び紐を解き始めた。
その間にもなにか言葉を交わしているようだが、さすがに声までは聞こえない。
本人たちは昔からの馴染みだからという理由でなんとも思っていないのかもしれないが、
妙齢の男女が人混みから離れた薄暗がりの中に二人きりでいて、
女の足に男が触れているというさまは正常なものではあり得なかった。
頑固な年寄りでも通ろうものなら即座に説教が始まることだろう。
しかしながら今宵は祭で誰もが他人に気を配る余裕などなく、
見ている五人もこのような楽しい見せ物をみすみす逃そうなどとはチラとも思わなかった。
文次郎は草履をほどいたその足を持ち上げたり傾けたりして様々な角度から眺めていたが、
懐から軟膏の包みを取り出すとのかかとに塗り込んだ。
遠目でも保健委員長にはわかったようで、草履で皮膚に擦り傷をつくっちゃったんだねと彼は呟いた。
文次郎はのその足にまた草履を履かせ、傷に触れぬよう用心しながら紐を結んでやった。
その指の仕草が、あの無骨で繊細なところなどなにひとつない文次郎とは思えないほど優しく、
気遣いや思いやりにあふれているのが見て取れて、五人はうっかりと目を奪われてしまった。
ほら、できたと言わんばかりに、紐を結び終えた足首を文次郎はぽんと叩き、
は少し緊張気味に微笑むと彼を見下ろし、なにか礼を言った様子である。
文次郎は何事もなかったかのように立ち上がり、膝についた土埃を払うと、に手を差し出した。
は当たり前のように文次郎の手のひらに自分の手を預け、立ち上がる。
ふたりはそうして手を繋いだまま、出店の立ち並ぶ方へ人混みに流されるように歩いていった。
二人の姿がほとんど見えなくなってやっと、五人はほーっと安堵の息をついた。
「いやぁ……びっくりしたなぁ」
「見ちゃいけないものを見たような気がするな」
まだ頬を赤くしたままの伊作に、二人の様子を直視しづらかったらしい留三郎が視線を逸らしつつ答える。
「仙ちゃんさぁ、今日大人しいね」
もんじをからかういいネタだったじゃん?
聞かれて、仙蔵はふっと不敵な笑みを浮かべた。
「愛し合うもの同士の邪魔をするなどという無粋をこの私がおかしてなるものか、そうだろう小平太?
すべては今宵だ、今宵は面白いことになるぞ。ここ数日の私のストレス分だ。
文次郎にしこたま恋バナをふっかけてやる。とことん吐かせるぞ」
「おー! 賛成ー!」
小平太は一も二もなく無邪気に答えると、二人が消えた人混みに向かって突進する。
「もんじー! ちゃーん!」
こっちこっちと呼ぶと、文次郎とはやっと気がついて彼を振り返った。
小平太は二人に振る手とは逆の一方にとても一人前とは思えない量の食べ物を抱えていた。
「あ・わたあめ」
「わたあめはー、右の奥の出店のがちょこっと安かった」
が目を輝かせたのを見て、小平太はにこにことそう答えた。
「ひとりで食うのか、それ」
「うん? うん」
文次郎が呆れた目を向けると、小平太は逆になにをばかなことを聞いているのかと言いたげな目を文次郎に向けた。
五人はすでに祭の会場を一周はしてしまっているらしく、手に手に収穫物を持っている。
がおかしそうにクスリと笑いを漏らすと、いちばん近くに立っていた伊作が微笑み返すことでそれに答えた。
誰にも聞こえないようなささやかな声で、彼はに言った。
「……仲良しだね」
言われてはぽかんと伊作を見上げたが、彼のその目が意味深に少し伏せられたのを見て、
まだ文次郎と手を繋いだままであったことに気がついた。
「ほーら、文次郎、ダメだよちゃん放って。せっかくの祭なのに、時間が惜しいでしょ」
なにやらはた迷惑な言い争いに発展している友人達の騒ぎを諫めるべく、伊作はぎゅぅと文次郎の耳を引っぱった。
「て! てめ、伊作……」
「ちゃんになんか食べさせてあげたら? 文次郎もなにも口に入れていないんじゃないの」
いかにも保健委員長らしい口調で彼は言い、文次郎は聞いて途端に大人しくなった。
まだ手を繋いだままのに視線を落とす。
「そうだ、。なにか見たいものとか、食いたいものとか、あったんじゃないのか?」
行きたがっていたのはお前のほうだろうと文次郎は聞いた。
はややぼんやりとしたふうにしばらく文次郎を見上げ、ゆっくり口を開いた。
「文次郎、金魚、欲しい」
「金魚すくいか?」
「あ、じゃああっち」
すでに会場の出店配置を把握しているらしい小平太が指さした。
一同は連れだって小平太のあとにぞろぞろとついて歩いた。
文次郎はずっとの手を引いたままだった。
は繋がれたその手を見つめ、先を歩く文次郎へ視線を移した。
夫婦になるのをやめたほうがいいと思うと、そう言ったとき、文次郎はただ驚いて目を丸くした。
しばらくはなにも言わず──声が出なかったというほうがもしかすると正しかったのかもしれないと思うほど──
長いこと黙ったまま、をひたと見つめおろしていた。
──なぜだ。
文次郎は驚くほど感情のこもらない声でそう言った。
──俺から償いを奪うつもりか。
そんなことを望んでなどいないと言ったじゃないのとは返したが、文次郎は構わず続けた。
──少し、考えてくれんか。
俺も混乱している、そう言って彼は前を向いてしまった。
考えて、ずっと言おうと思っていたことなのだとちゃんと前置きをしたのにとは思ったが、
確かに文次郎は言葉の通り混乱しているように見えた。
こういう話はきっと時間をかけたほうがいいのだろうとは判断し、黙ることにした。
そのまま一言も会話は起こらず、二人は石段をのぼりきって境内にたどり着いたのだった。
「どれだ?」
「あの、赤くて、ちいさいの」
「……ひ弱そうだな」
「ちゃんと餌をやるもの」
金魚すくいの出店の前に一同は陣取っていた。
がこれと指さしたちいさな金魚を文次郎は難なくすくい上げる。
水をさした透明のビニルに金魚は入れられて、に手渡された。
「……この子、目の下に黒いぶちがある」
が何かに気がついたように金魚を灯りにすかしつつそう言った。
「じゃあ、この子は、“もんじ”」
文次郎は思わずぶっと吹き出した。
仙蔵と留三郎もそれを聞き留めて、ぐっと笑いたいところを震えながらこらえている。
「ハァ!? なに考えてやがんだ、お前は!」
「……じゃあ、“クマちゃん”」
「こっぱずかしい真似すんじゃねぇ!」
「文次郎がクマを消せば問題ないでしょ」
確かに間違ったことは言われていない。
文次郎は言葉に詰まり、周りで友人達がくっくと笑いをこらえている。
「いいではないか、文次郎?
ペットに恋人の名を付けるというのは少女漫画の定石というものだろう」
「ちゃんもいちいち可愛いなぁー。
よしよし“もんじ”、餌いっぱい食って大きくなれよ。大事にしてもらえよ。逞しく生きるんだぞ」
言って、仙蔵と小平太は大笑いをした。
その声を遮るように大きな爆音が響く。
何事かと皆が振り返ったところに、大きな花火がぱっと咲いた。
「おー、始まった!」
もっと見やすいところに行こうと小平太が走り出し、皆がなんとなくそれに続いた。
最後にぽつんと残った文次郎とは、目を見交わすことで“どうしようか”と相談したが、
結局なにも言わないでその場に残り、人々の頭の上に次々花火があがるのを見上げた。
爆音に耳を塞がれ、夏の風物詩たる炎の花が夕闇のうえに咲いては儚い命を散らしていくのを見て、
胸の潰れるような切ない思いがよぎる。
こういうのをなんというのだったかと考え、郷愁という言葉がふっと浮かんだ。
故郷にありながら郷愁とはおかしな話である。
己の家はすでにあの学園、忍の世界となってしまったのだろうかと思った。
文次郎は祭の喧噪が遠のいていくような、世界中がなんとなく遠いような感覚に陥った。
取り残されたのは、己との二人だけ、そんな錯覚である。
が言いだした、夫婦になるのはやめたほうがいいと思う、というあの言葉を、
文次郎はなに食わぬ顔を演じ続ける裏でずっと考え続けていた。
混乱がおさまったとは言い難い。
夏休みと秋休みのあいだ、と離れて学園にいるあいだに、充分考えて答えも見つかったと思った。
後ろめたい思いなどなにも抱かず、を嫁にほしいと申し出ることができるはずだったのに。
(どこでなにを間違えた……俺は?)
頭で考えていても最後の最後にはわからなくなる。
花火がひっきりなしに打ち上げられ、は金魚に構うのも忘れて空を一心に見つめている。
石火矢を豪快に撃ったときのような爆音が絶え間なくあたりに響いている。
まるで己に似合わぬような切ない感覚は絶えず内心に押し寄せて、思考回路が孤立しているようだと文次郎は思った。
あたりのなにもかもが遠ざかって感じるのも相変わらずで、自分自身以外のものの存在感が次第に薄くなっていく。
横に立つまでが離れていってしまうような気がして、文次郎は唐突に、の空いた手をとった。
不安な心情を自覚するよりも先に手が動いてしまった。
いきなりのことには少し驚いたようで、花火から目をそらし、文次郎を見上げた。
その口が“どうしたの”というかたちに緩やかに動く。
隣に立っていてもその声は聞こえなかったが、繋ぎ直した手から伝わるの体温は、
文次郎に確実な存在感を伝えてくる。
あたたかさのともる指先から、の存在感が輪郭を取り戻してゆく。
ただただが離れていくわけじゃない。
よく考えれば当たり前のことにやっと思い当たり、文次郎はほっとした。
の目にも隠せないほど、その安堵の表情はわかりやすかったようで、は不思議そうにかすかに首を傾げた。
は背伸びをして文次郎の耳元に口を近づけ、もう一度「どうしたの」と聞いた。
身長差を埋めるように、の足に背伸びなどという負担をそれ以上かけないように、
文次郎は少しかがんでやることにした。
「花火の音が恐いわけじゃないでしょ」
今度は辛うじて、声が聞こえた。
「馬鹿。そんなわけがあるか」
「ばかとはなによ。せっかくのお祭りなのにぶち壊しにしないで。ねぇ、ほら、菊花! きれい」
「」
「なぁに」
「好きだ」
どん、とひときわ大きな音がして、花火の打ち上げは終幕を迎えたようだった。
まったく関係のない会話に前触れなく混じった言葉に、は目を丸くしてただ文次郎をまっすぐに見つめた。
夏休みにに告げたときもそうだったと、文次郎は思い返した。
嫁に来いと言われてリアクションがこれだけとは大したものだと、彼は思わず感心してしまったのだった。
「文次郎! なんだ、ずっと後ろにいたの?」
離ればなれになっていた友人達をずっと気にしていたらしい、伊作が真っ先に戻ってきた。
「ああ、人混みに混じるのも面倒だったからな。……祭も今夜はこれで一段落だろう」
「まだ続くの?」
「今日は九ツくらいまでだな。明日は昼から表通りを御輿が通る」
「へぇー! 結構大がかりにやるんだね」
楽しそうに伊作は相槌を打ち、に向き直ると、花火見えた、と問うた。
は少し狼狽えたように彼を見上げたが、やがてこくんと小さく頷いた。
伊作は一瞬きょとんとし、おやおやと思う。
自分たちが背を向けているあいだに、この二人のあいだになにかがあったらしい。
けれど彼は問うのはやめようと考えた。
どうせ聞くなら、潮江の家に戻って、酒盛りにでもなった頃合いを見てのほうが面白いに決まっている。
伊作自身が仕掛ける気は全くなかったが、仙蔵の先程の言から思えば、
帰宅以降の文次郎がどんなひどい目に遭うかは想像するに難くない。
花火が終わると、祭の見物にやってきていた人々もちらほらと帰途につくようで、石段に人が混み始めた。
かわって空いてきた出店のあいだを文次郎はの手を引いたままでゆっくりと見てまわり、
先にを送って屋へ戻ってくると言い置いて、まだ遊ぶという友人達といったん別れた。
のぼりよりも厳しい下り階段を、文次郎はをかばってやりながらゆっくりゆっくりと降りた。
長い道のりを、二人ともなにも言うことをしなかった。
気まずい時間ばかりが延々と続く。
なにか会話のきっかけになるような最初の一言を、ふたりはそれぞれの頭の中で必死に探していたのだが、
うまく言葉として浮かばず、横たわる沈黙がじわじわと存在感を増すばかりであった。
目が合ってしまえば相手の考えていることがきっとわかってしまうだろうと、二人ともが同じことを考えていた。
相手の真意を思い知るのがなんだか恐くて、視線を交わすこともせずにふたりは黙々、石段を降りた。
何事もなく降りきって、町へ続く道へが無事に立ったとき、安堵の息をついたのは文次郎のほうだった。
先程も似たようなことがあったとは思う。
「……だから」
「あ?」
「だから、いやだって言ったのよ」
主題がなくとも、何の話なのかが文次郎にはわかってしまったのだろう。
彼は咄嗟に、聞きたくない、という顔をした。
「……行くぞ」
「聞いて」
「……道々、話せ」
振り返りもしないで低い声でそう言った文次郎に、はしぶしぶといった様子で、従った。
片の手に金魚を提げ、同じ手に途中で買ったあんず飴を持ち、もう一方の手は文次郎と繋がれている。
二人は薄暗い夜の道を歩き始めた。
彼はの一歩先を歩き、その表情は暗さも手伝ってかまったくには伺えなかった。
道々話せと言われたが切り出しづらく、は困りはてて黙り込んでしまった。
沈黙に耐えかね、先に口を開いたのは文次郎のほうだった。
「……なぜ、今になって、……やめたほうがいいと」
聞きたくない話のはずが、彼はその気まずさを掻き混ぜたいがため、自ら話を切り出してしまった。
はしばらく言葉を選び迷うように黙っていたが、文次郎はその沈黙を肌に痛く感じながらも、じっと耐えて待った。
「……だって、一緒にいても、」
ぽつり、ぽつりと、間違ったことを言わないように気をつけながら、は続けた。
「文次郎は、つらそうにばかりしているんだもの……私に、謝ってばかりで」
「そんなことは、」
ない、と言おうとして、それが嘘になりそうなことに気付き、文次郎は語尾を飲み込んだ。
言い訳も建前も、すべて取り払って自分の感情を確認したはずであったのに、
いざの前に立つと何も変わらず、その負い目ばかりを気にかけていたことに思い当たる。
言いかけて黙ってしまった文次郎の様子をはしばらく伺っていたが、文次郎の言葉の続きを待たずに口を開く。
「いくら気にするなと言っても、どうしようもないことなんでしょう。
私、どんなに器用につとめようと思っても、……やっぱりうまく歩けないから。
それを見たら文次郎は何度だって、自分のせいだなんて、そう思うんでしょう」
それくらいなら、とは言って、いったん言葉を切った。
その先を言うことを躊躇っているような微妙な間があった。
言わせたくない──聞きたくないと、文次郎は思った。
が続けようとするのを遮って、彼は無理矢理続けた。
「俺は、……お前が、笑えるようになってくれれば、いいと思ったんだ」
「……笑わないのは、文次郎のほうよ。いつもいつも」
虚をつかれ、文次郎は思わず立ち止まってを振り返った。
は心細そうな顔で、彼を見上げた。
今までに見たことのないようなその表情に、文次郎は胸の奥がつきつきと痛み疼き出すのを感じた。
「文次郎、私、どうせ一緒になるなら、文次郎にだって幸せな気持ちでいてほしいと思うのよ。
……でも、私と一緒にいたら、必ずあの日のことを思い出すんでしょう。ねぇ、」
問いかけて、しかしの話す勢いが一瞬削がれた。
は言いづらそうに、けれど精一杯平気を装い、問うた。
「……さっき、花火の終わる頃に、なんて言ったの? 花火の音のせいで、私が聞き間違えたの?」
「……あれは、」
言おうとして文次郎は口を開きかけるが、しばらく躊躇って、やめてしまった。
かわりに少々乱暴にの手を取り直し、屋へ向かって歩き始めた。
店の表入口はすでに閉められており、朝の早い家人達も眠りについている頃である。
裏口へまわり、話がきちんと結論を見ないまま別れなければならないのをは口惜しく思った。
は仕方なく、じゃあね、また明日、と呟いた。
繋いだ手を離そうとするが、文次郎の手はの指をぎゅっと握りしめたままで力を緩めようとしない。
は困惑して、恐る恐る俯き加減だった目を上げた。
文次郎はただまっすぐ、繋いだ手を、の細い指を見つめている。
彼は静かに口を開いた。
「……俺では、だめか」
「え?」
「……嘘を言ったわけじゃない」
ぼそぼそと言葉を紡ぐその声に、は花火の終わり頃に文次郎が告げた言葉を思い返した。
──好きだ。
たったそれだけ、たった一言。
「償いだけで、一緒になろうと言ってるわけじゃない。……負い目があるのも嘘じゃあないが」
「文次郎……」
心細げな声に呼ばれ、文次郎は逡巡しながらも、目を上げた。
をまっすぐに見つめる。
は感情だけで精一杯になってしまっているようだった。
文次郎の言葉が、何らかの内側に響かせることができたのである。
はその響きに思考回路を奪われて、言葉を紡ぐこともままならない様子だった。
自分のことだけでは手一杯なのだと思えば、今すぐに答えを求めるのは親切じゃないと彼は思った。
今自分がすべきことは、手を離し、考えておいてくれとでも言い置いて、友人らの元へ戻ることだ。
頭では文次郎もちゃんとわかっていた。
慣れない難しい問題を抱えているときには、考える時間は多くあったほうがいいに決まっている。
今まさに手を離そうとした、そのときだった。
なにがそう仕向けたのか──わずかばかり欠けただけだった明るい月を、流れた雲が覆い隠した。
あたりにふっと濃い闇が落ちる。
目の前に居ながらにして闇に溶けるように、の表情も薄れて隠れてしまったが、
繋いだままだった指先がぴくりと、怯えたように一瞬、跳ねた。
合図を受けたようだった。
文次郎はのその手を引いた。
長時間立ちっぱなし、歩きっぱなしだったの足が、
そんな些細な力によって簡単によろめくことを文次郎はよくわかっていた。
あ、との小さな声が聞こえた。
倒れかかってきたの身体を、文次郎は引き寄せ、抱きしめた。
突然のこと、腕の中でが驚いて呼吸を乱す。
何か言おうとしても声も出ないのだろう。
夏休みにあったような、慰めの抱擁とは意味が違う。
考えることばかりが先に立って、やっとこの頃追いついてきた恋慕の情。
それが初めて、文次郎の手を動かし、を絡め取った。
の身体は小さく震えていたが、それが怯えのためではないことを文次郎は知っていた。
一言も交わさないまま、二人はしばらくそうしていたが、やがては少し落ち着いたのか、
文次郎の腕の中でぎこちなく身じろいだ。
よろめいたままの体勢がつらくなってきたのだろう。
文次郎はを抱きしめていた腕をゆるめてやった。
は嫌がりもせず、離れようともしなかった。
文次郎の腕に頼るようにして姿勢を正し、躊躇いながら、ほんの少し顔を上げた。
月はまだ隠れたまま──少し離れて山の上、祭のあかりがちらちらと星の輝くように灯りを投げているが、
お互いの表情を確かめられるほどにはその光は強くない。
薄闇の中、それでも文次郎にはなんとなく、今お互いの視線がぴたりと絡み合っていることがわかった。
もそれは同じだったのかもしれない。
そのまぶたがゆっくりと伏せられたのを文次郎は感じた。
迷うことはしなかった。
片腕に支えたの身体を、文次郎はまたそっと抱き寄せ、唇を合わせた。
重なり合わさるだけの口付けに、けれどの身体から次第に力が抜けていくのがわかった。
ゆっくりと離れると、途端に雲が晴れて月がやわらかなあかりを覗かせた。
は目も上げられず、ぱっと俯いて文次郎の肩のあたりに顔を埋めてしまった。
幼なじみが恋人の仕草を見せてくれたのはそれが初めてで、
文次郎はなんとなく微笑ましく、このうえなく幸福な思いを覚え、ふっと笑った。
彼は大らかにの身体を抱きしめて髪をぽんぽんと撫で、言った。
「……明日、あいつらと一緒に学園に戻ろうと思う」
文次郎の目にはの耳の端しか見えなかったが、その耳まで真っ赤になっているところを見ると、
話を聞くどころではないのかもしれない。
しかしはちいさくうんうんと頷いた。
「……次は冬休みだ。晦日ぎりぎりまでは学園にいるつもりだが」
はまた、ただ頷いた。
夫婦にという約束が泡と消えるかもしれなかったところが、
月の居ぬ間のわずかの時間で文次郎ももお互いのなにもかもを了承するには充分足りたようだった。
はまるで恐る恐るというように、小さな声で囁いた。
「……手紙、書いてもいい?」
「構わんが、……なんか書くことあるか?」
「“もんじ”の成長記録とか」
「お前、ほんとやめろ、それ……」
呆れ声で言ったがなにかおかしく思われて、その語尾は笑い混じりになってしまった。
もくすくすと笑いをもらす。
二人でひとしきり笑ったあと、がぽつりと、呟いた。
「……子どもの頃は、平気だったのにね」
先程の口付けのことを言っているのだと悟って、文次郎は今更猛烈な照れを感じ、ぷいとそっぽを向いた。
「そうかもな」
「……びっくりした」
「そりゃ、悪かったな……」
甘やかなやりとりが確実に二人の関係の名を幼なじみから恋人──あるいは許嫁──へと変えたというのに、
その後の会話にしてはあまりに色気が感じられず、それがなんだか滑稽で、二人はまた笑った。
「……明日、屋へ寄る?」
「ああ、そうする」
「じゃあ、お菓子包んで、待ってる」
「わかった」
話はこれで完結を見ただろうに、から離れ難く、文次郎は留まる言い訳を目の端に探した。
髪に重ねてつけられたちいさな簪がまず見えた。
「……気付かなかったわけじゃないからな」
「え……なにが?」
はやっと、ちらと文次郎を見上げた。
文次郎はわざわざその目と視線がかち合わないように巧妙に目をそらしつつ、の髪のかんざしを指でつついた。
「……だが、別に、他の男の目の前では、めかし込む必要はないと思うぞ」
は見上げた格好のまま、ぽかんとして固まってしまった。
「……妬いたの、文次郎」
「……し、知るか! 帰るッ!!」
柄にもないことを言ってしまったとやはり少し後悔しながら、文次郎はまたぷいとそっぽを向いた。
できればすぐ走り出して逃げていきたいところであったが、を放り出すとなると冗談で済まないことになる。
「なぁに、子どもみたい」
文次郎の腕を離れて、は口をとがらせた。
距離ができてしまうともうほとんど目を合わせることもできずに、文次郎はに背を向けた。
走り去ろうとして数歩行ってしばらく、文次郎は何か思いだしたようにぴたりと止まった。
「あ、……忘れてたが」
くるりと振り返り、文次郎はが手に提げたままの金魚をビシリと指さした。
「そいつ。変な名で呼ぶなよ」
「……“もんじ”は、やめておくわ」
「クマもやめとけよ」
「じゃあなんて呼べばいいの」
「自分で考えろ!」
はまたつまらなさそうに唇をとがらせ、
金魚のビニル袋を持ち上げるとつまんない人よね、と泳ぐ背ひれに愚痴をこぼした。
子どもはどっちかと思って息をつくと、文次郎は改めて踵を返そうとした。
が見送りの言葉を投げる。
「……気をつけてね」
「……ああ」
角を曲がってしまう前にもう一度振り返ると、はまだそこで見送りに立っていた。
その光景を文次郎は忘れない。
は嬉しそうに顔いっぱいに微笑んで、小さく彼に手を振ったのである。
(……笑った)
文次郎が目を奪われているあいだには家へ入り、中からぴしりと戸を閉めた。
たとえようもない幸福感が彼の全身を満たしていった。
望んでいたものがもうすべて手に入ってしまったような気分である。
気を抜けばすぐ緩んでしまいそうな口元に文次郎はきゅっと力を入れ、唇を引き結ぶ。
(いかん、こんなことでは)
文次郎はとりあえず、闇雲に突っ走ってみることにした。
耳元を風が音を立てて通りすぎる。
少しずつ身体に宿っていた熱は冷めて薄れ、緊張の糸が切れたかのようにどっと疲れが押し寄せた。
けれど、肩に凝るその疲れをこうも心地よいものと思ったことはない。
奴らにだけは妙なことを悟られてはいけないと思う──文次郎はぺろりと唇を舐めた。
途端、無理矢理思考から追い出そうとしていたのことが、どっと文次郎の脳裏に押し寄せた。
初めてあんなにも距離が縮まったことを。
(ヤバイ……まるで病気だ)
伊作にでも診せようものなら、恋の病の一言で片付けられ、からかいと冷やかしが処方されることだろう。
冗談じゃない、これ以上と文次郎は思うが、速さを増して脈打つ鼓動はとどめようがなかった。
文次郎はぐいと、親指で唇を拭った。
唇を舐めて感じた味は、が舐めていたあんず飴のそれだろう。
甘やかなその記憶と舌に残る味に、文次郎はひとり、気まずそうに唇を噛んだ。
似合わないのも滑稽なのも承知である。
けれど彼はわずかに残る甘い味に、のことを思った。
今しばらくは、酔いしれることを己に許そうと思った。
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